中山 孝一

2020年6月10日3 分

牧志界隈を歩く その十四

 牧志3丁目はかなり複雑な形になっている。国際通りから市場本通りに入ると、左の長い建物が水上店舗で、これは牧志3丁目の一方の端だ、よって右手は松尾になる。そのまま突き進むと右手にある(あった)牧志公設市場は実は牧志ではなく松尾にあることになる。

 左手の水上店舗に沿って、ずーっと進んで行くと、「浮島通り」に出る。角に最近できた、セブンイレブンがある、その横から「新天地市場本通り」という通りに入る。見ると面白い、真ん前に船の先端のようなビルがいきなり出迎える。階段の上には新天地市場の事務所、ビルの前の路上には果物屋が道いっぱいに果物を並べる。この辺りはいくつもの道が交差するところなのでいつも人が賑わうところだ。


 

 この通りの左手に、水上店舗につながるトタン屋根の建物がが広がっていた(今は駐車場)。その内部は全く迷路そのもの、そこが「新天地市場」と云われた地帯だ、沖縄オバーのメッカというか、御用達というか、所狭しと並ぶオバー専用の衣類店があった。沖縄のオバーはここを通らなくてはいけないというのが暗黙の了解、という雰囲気があった。おそらく離島からも、地方からも、沖縄全土のオバーはここに集結した。沖縄ではオジーもオバーも、独特な服のカラー、スタイルがある。それを身に付けることによって沖縄のオジー、オバーであるという誇りを持ってるような感じがある、その一大供給地が、ここ「新天地市場」だった。名前がいい、沖縄のオジーもオバーも常に新天地を求めていたのだ


 

 さて、その新天地を抜けると「サンライズ通り」のアーケードに出る。ここが牧志、壺屋、松尾の分かれ目になる。右側は松尾、向かいにある商店街「太平通り」は壺屋になる。

 「サンライズ通り」を左折する。また「浮島通り」をこえると、有名な「丸国マーケット」が右手にある。ここは、我らの若者時代には避けて通れない聖地だった。中にはわずか1~2坪の仕立て屋、刺繍屋がびっしり埋まっていた。中学生専用のお直し屋があったのだ。

 今から5、60年前は中学、高校はどこも学生服のみ、しかし、買ったばかりの学生服はあまりにも優等生用でかっこ悪いってんで少し手直しをしてみる。その手直しの程度で、思い切っりのワルか、ちょっと背伸びしようとした程度なのかがわかる。んで、ここにはその噂を聞きつけた全島のワルが集合する地点となる。それで一躍有名になった。現在でも成人式の時に活躍する店があるようだ

 こうした場所は当然のごとく無法地帯になる。各地のしのぎを削ったワルどもの稼ぎどころとなるのである。追うもの、追われるものが入り乱れる光景は日常茶飯事だった。しかし、この施設を熟知した地元の我々は有利だった。このマーケットは知らない人にはとんでもない迷路になる。そこを知り尽くしている我々は逃げ回り、顔見知りの店主のオバーに「ニーニー、ここに隠れなさい!」と助けてもらう。実に良き時代だった。

 

 次に進む、丸国を過ぎ、突き当りを右に曲がる。道路を超えてまっすぐ行けば、壺屋の「やちむん通り」に入る。牧志三丁目はここから面白い、その「やちむん通り」の左側に坂道があり、三丁目はそこから入る。「てんぷら坂」だ。かつては何軒かのてんぷら屋があったが、今はない、さらに登ると前回書いた桜坂からの道に合流する。左にはこの辺りで最後に残った酒場「大富士」が堂々と、そこを左に行くとグランドオリオン通りに出る。その右角に「紋次郎」という、知る人ぞ知る名店があった。森島さんが即興でギターを弾き、それに合わせて奥さんが踊りながら歌う、昭和の浮き沈みを見事に現していた。まさに名人芸だった。右に行くと、「ヒーロー」という昔の映画看板(現在ゴジラと男はつらいよ)が貼られている店がある。その向かいには「野球小僧」 ここらはまだまだ昭和が満載のようだ

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