中山 孝一

2019年4月2日3 分

公害問題と宇井純先生

 公害という言葉はすでに死語になったのか、最近とんと聞かなくなった。昭和30年代の日本は経済成長一直線で突き進み、戦争で受けたストレスを一掃するかのごとく国民は猛烈に仕事をした。それを高度成長時代といった。当時の池田勇人総理大臣が給与倍増計画などと打ち出したものだから、なおも拍車がかかり猛烈に働いた。

 そのつけがしばらくして、公害をいう問題を起こした。工業技術では世界でもトップをいく日本は工業生産に力をいれる。どこもかしこも煙突の大きさを競うように何某の大工場が立ち出した。それは日本の発展を期待させる象徴だった。煙突からの煙は空を真っ黒に覆う、排水は川という川に垂れ流し海にまで達する。それでもがむしゃらに働いた。

 じわりじわり人間と自然を破壊にと追い詰めていることを誰も気づかなかった。とにかく金を優先した。企業も仕事人も、その利益共同体の姿を日本株式会社と言わしめた。

 僕はその工業地帯の真ん中で生まれた。阪神工業地帯の尼崎、ここには神戸製鋼、住友重金や久保田鉄工、旭硝子や、家の近くには塩野義製薬があった。当然空は真っ黒の日々、近くを流れる神崎川は日本一汚い川の汚名がついた。これは当たり前のことだったのか、僕は喘息になった。

 その後、家族は公害のない沖縄に住み着いた。いつのまにか僕の喘息は消えていた。喘息ならまだ全然楽な方だった。あれからの日本は一大公害列島になる。いたるところで原因不明の病気が現れた。医学界でもわからず、手がつけられず、被害者は悶え苦しみ死んでいく、という地獄絵が出現したのである。にも関わらず国や企業の責任論は浮上しなかった。

 数人の学者が立ち上がった。その筆頭が、東大で化学専門の助手をしていた宇井純先生である。官僚学者がはびこる東大こそが日本を悪くしていると息巻いて、教授の力があるのに助手の立場で東大解体運動をしていた強者なのである。故に、この公害問題でもその熱血漢ぶりを遺憾なく発揮した。兎にも角にも、市民に公害とは何かを、知らしめるべきだと、公害自主講座を東大内で開いた。ここで初めて、熊本の水俣病、富山のイタイイタイ病等が世間に知れ渡ることになる。

 そうした地道な運動がやがて国を動かし、企業を動かすことになる。国は公害防止法なるものを制定し、企業もやっと重い腰を動かしはじめ、賠償問題にも取り組み出した。その後は公害を引き起こす企業は反社会的なレッテルを貼られるまでになった。

 ここまで、僕が公害に関心があったのは、喘息を引き起こし被害者の立場というのもあるが、大学の同級生で、藤部という友人が、ある日突然、「公害問題研究会を作らないかと」と声をかけてきた。彼は原子力問題に関心があった。その後、最後まで二人だけの研究会ができた。

 その後は宇井純先生の公害自主講座やその他の公害関連書物を読みまくった。一時期のそういう青春の熱は後々役に立つものだ。その後宇井純先生は沖縄大学の教授になっていた。ある日パーテイーの席でお会いできる機会があった。そして緊張の中、当時の話を熱く語った。

 青春が蘇った夜だった。

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