中山 孝一

2019年1月8日3 分

ワープロとパソコン

 昨年末だから、平成30年、最後の平成の暮れを迎えた時、部屋の改造をしたところ、眠っていた。デルのパソコンが復活した。嬉しかった!、そこには約10年ほどの思い出が詰まっている。

 去年のある日、いつものように起動させたら、いきなり轟音ともいえる音とともに、一切の反応を示さなくなった。それ以来新しく買った慣れないマックを使用していたが、諦めきれず何度も、目覚めよデル!との思いで、試したがダメだった。

 僕のパソコンの歴史は古く、まだ世の中がワープロが主流の頃だから、平成7年ごろ、国際通りに、珍しくアップルショップがあった。今のドンキホーテの隣だ、何気に覗くと、可愛い女性が一生懸命に説明してくれた。何おかいわんすぐローンを組んだ、パフオーマというシリーズだった。どうしてあの時パソコンが欲しくなったのか、それはその前にナショナルのワープロ、パナソニックを使っていた。竜宮通りの事務関係などで必要だし、自分のアイデアをアウトプットするには便利なツールであった。そして単なるワープロ機能だけではなく、これで通信も可能ということを知り、雑誌や本などで調べ、ワープロ通信なるものを始めた。

 まず、ベスト電気で電話回線の工事を、と言っても、古いタイプをモジュラーにするだけ、簡単な作業だが、かつての日本電信電話公社はこういうことでも、高圧がかかる危険があるのでと、一般人には触らせようとはせず、工事費をふんだくるのである。回線の取り換え部品がベスト電器に普通に売られているにも関わらずだ、ここで世の中の不可解さの一端が見えた。

 そして、次に設定に入る。ワープロから、通信に関する約束事を、数値にして打ち込む、プロトコルというやつだ、専門誌とにらめっこしてしぶとくやった、次に通信を運営する会社へ登録する。当時の大手は富士通のニフティサーブとNECのPVバンというものがあった。ニフティーにした。確か登録料が1万ほどだった。ここまでするとうまくいくとオンラインできる。

 その結果は、一発で入ることができた。根性なしの僕がよくここまでと、自分で自分を褒めた

これから何をするのか、ここが問題、いわゆるコンテンツだ、その当時から泡盛に興味を持ち出し、各社の泡盛を集めだし、味も比較しだした、なぜみんな、久米島の久米仙と菊の露だけでこと足りぬのか、という疑問があった。好奇心はどんどん膨らみ、各蔵元を訪ねた様子、協同組合でのインタビューの様子、釀界新聞の仲村氏との対話の様子等を、ネット内の電子会議所という同じ趣味を持つ人が意見を論じ合うという、コーナーへ投稿した。まだ泡盛はなく、焼酎関係が主だった思う、今考えるとそこから僕の泡盛人生は始まった。

 しかし、時代はワープロからパソコンに移る。ので、パソコンが欲しくなったのである。それからは、インターネットという文字が見え始めた。アメリカの国防省や大学の研究用から民間でも応用し始めてきた。 しかし、日本ではまだまだ先の話になる。インターネット革命なる用語が流行語大賞になるが一般人は何のことだがさっぱりだった。あれから20数年がたった。

 時代は否応なしに変化していく、10年後は果たして・・・

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