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  • 執筆者の写真中山 孝一

26年前の小桜

更新日:5月23日



 小桜がはじめて周年を祝ったのは開業して40年もたった1995年だった。時はバブルがはじけ、どこをみてもいい景色はみられない、飲食界はどん底だった。そんな中背水の陣で行ったのがホテルでの40周年パーテイーだった。身の縮む思いでむかえた95’3.26はなんとか成功裡に終えた。それから、3年経った頃だった。テニス仲間の稲富さんにこんな冗談を言った。「稲富さん、そろそろ小桜を描いてくれないと、なくなるよ」稲富さんは沖展絵画部門の常連である。描かれるものは、主に桜坂の繁華街や市場にあった古い建物であるが、描くたびにことごとく消えていたのである。絵が時代を物語っていた。そこで口をついたのが先の言葉だった。

 稲富さんは本気にしてくれた。その年1998年の沖展に100号の堂々たる小桜の絵がが展示された。早速沖展の初日、我が家族と母のフミエ、その友人の鎮西さんらと喜び勇んで鑑賞した。撮影禁止のはずが絵のまえで皆がはしゃいでる姿が何枚も残っている。

 

 つい先日の話「昔描いた小桜の絵が展示されているよ」と稲富さんがいう。まさかと思いすぐさま展示会場へ向かった。26年ぶりの再会である。今は無き隣の寿司屋、向かいの映画館、竜宮通りのアーチ看板、そして台風で吹き飛ばされた小桜の大看板等、懐かしさに溢れた。急いで家に帰り当時皆を撮った写真をさがした。やっと見つかった。そして

 この再現をやってみようと思いついた。

次の日皆に呼びかけ写真の前に集合した。一枚の絵に26年間の歴史がつまれている。母は亡くなり子供たちは成長し、孫たちが絵の前ではしゃいだみせた。

 小桜のトイレにはこの絵の色紙があり、僕の財布には絵のテレホンカードがある。このことを稲富さんにいうと、絵を大切に思ってくれたことをとても感謝された。が、いやいや感謝するのはこちらの方である。いつまでも大切に思っております。おかげさまで小桜は残っております。


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