国際通りから、水上店舗に沿ってむつみ橋通りを進んでいくと、水上店舗の切れ目にあう、とそこでも急な勾配に当たる。ここにも橋があったことがわかる。それを超えて行くと、ちょっとおしゃれな空間に出会う、いつの頃からか「パラソル通り」といわれだした。誰でも借りていい本棚があったり、おでん屋があったり、小さな珈琲屋があったりする。でもよく見ると計画的に作られた空間ではなさそう、形がいびつだ、左手にある建物は公設市場の別館で一階は化粧品やらの部署に二階は商人塾という文字がある建物、少し離れて衣料部という建物がある。ここは琉装専門や沖縄の行事に欠かせない衣類を置く小さいコマが所狭しと並んでいる。
この二つの建物が別々に建てられている。この二つの建物の間に平和通りに繋ぐ狭い通り道がある。
この狭い通り道、今は八軒通りというそうだ、24歩の日本一短い商店街という触れ込みが書かれてある。昔は食堂街だった。公設市場も平和通りも整備される以前、小さな食堂が寄り添うように並んでいた。小さいころ母に連れられ仕入れに市場へきたとき必ず寄ったところだ。いつもたのむのは沖縄そばだけ。価格は普通が10セント、半そばというのが5セント、それを一つづつ注文する。これだけで出て来るまでいつも1時間は待たされた。我慢強さはこの時育った。大きくなって、なぜあれほど遅いのか検証してみた。で、あくまで持論だが、沖縄の食堂で働くおばさんらは組織的に動くことが苦手なのだ、リーダーがいないし、いても言うことを聞かない、ワンがワンが(私が私が)の世界でまとまらない、結果段取りが悪くなる。と考えた。しかし、これは食堂だけではなく、当時はどの業界もそうだったように思う、ウチナーンチュ独特のマイペースでなかなか前に進まない、今はそうではないが、でもあれはあれで人間らしくてよかった。
1972年の日本復帰からは、日本的なシステムが徐々に沖縄の社会にはびこり、街が急速に変化しだした。どこを歩いても、あれ?ここ前なんだった。あれ?こんな道あった。と首をかしげる日々が多くなった。だからか、八軒通り入り口にある”まきや帽子店”のおばさんとか、桜坂を登る手前にある”比嘉茶舗”のおばーとか、一日中だべっている”衣料部”のおばさんたちを見てるとホッとする。ここら辺は時が止まっている。
またパラソル通りに戻る。そのまま行くと道はきれ段差にあう。ここで右と左に分かれる。左側には”台湾茶屋”というのがある。この界隈のおばさんたちのゆくい処(休憩場所)だ、沖永良部出身の川畑氏が脱サラで始め、今や名所になった。アイスコーヒーの氷もコーヒーで作るので味が薄まることがないというので評判になった。
さて、分かれ道の左側に進んで見ると複雑に絡み合う”えびす通り”に出る。昔ながらの店(靴屋、洋服屋、生地の店等)もあるが、ここ最近のブーム”せんべろ”の店も目立つ。商店街と名のつくところはどこも苦戦を強いられる。随分前から大店舗に客は流れている。しかし長年続く専門店はなかなか頭の切り替えができない、それに世代交代もままならない、となるとどうするか。仕方なく、長年頑張った店を断腸のおもいでたたむ。そして、業態を変え貸すことになる。一番手っ取り早いのは飲食店、その中でもブームにのっている”せんべろ”は誰でもできるだろうと思うから、借り手がすぐ見つかる、と考える。その通りだった。すぐ借りては見つかった。しかし、その店果たして続くだろうか・・・これが問題
次は牧志の二丁目界隈を歩いてみよう
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