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  • 執筆者の写真中山 孝一

忘れられた言葉


本だったか、新聞だったか、週刊誌だったか、それとも誰かから聞いた言葉だったかを思い出せないが、忘れられない一節の言葉というのがある。記録しとけばよかったと後悔してもはじまらない、最近そういうことがよくある。

 先日ある本を読んでいて、その中の言葉から去年のことを思い出した。それは忘れていた一節に出会ったことだ、その一節も去年ある本を読んでいるときにふと思い出したもので、普通だと流すのだが、この時は駄目元で探してみようと思った。ジュンク堂へ行き岩波文庫の背表紙を手当たり次第眺め続けた。何故か、手がかりは作者が明治の文豪であること、内容は(狭い庭をつぶさに見ると実に奥深い自然が見える、太陽の光、月の光も差し込み、この小さい空間に宇宙を見る。)というような一文だったような。

 ひょっとしたら思い出すかもしれないと思ったこの行動、あながち無駄ではなかった。背表紙に「「徳富蘆花」が目に入った。「不如帰」は知っているがと思いつつしばらく眺めた後、他の作品を見ると、「自然と人生」というものがあった。あの一文から想像するとこれっぽい気が・・そこでスタッフに聞いてみた。持って来たものが岩波のワイド版での「自然と人生」だった。間違いないこれだと、中を確認するまでもなくすぐにレジへ向かった。

 意気揚々と表紙をめくったが、文体が昔ので読みづらい、読解能力がおぼつかないのでなかなか先へ進まない、内容は自然や当時の社会の様相を写生するように短文のエッセイにまとめたものだが目的のあの一文になかなか辿り着かない。そうして奮闘すること四日目やっとついた。

 その章を見つけた時の書き込みがこれ、「やっと出会えた!」2019.6.28 am3.56

 内容はほぼ記憶通りだった。

「家は10坪に過ぎず、庭はただ三坪。」に始まり、「神の月日はここにも照れば、四季も来たりて見舞い、風、雨、雪、霰かわるがわる到て興浅からず。」とか「蝶児来たりて舞い、蝉来たりて鳴き、小鳥来たりて遊び、秋蛩また吟ず。」とか、そして最後に「静かに観ずれば、宇宙の富はほとんど三坪の庭に溢るるを覚ゆるなり」としめる。(これは現代語訳)

 おそらく20代の多感(?)な時に読んだ本だろうが、それが40数年たって思い出されることに少し不思議な感覚をおぼえる。あの時代は1970年代、それまでの高度経済成長時代の清算が始まった時で全国的に公害問題が毎日の話題だった。そういう時代に遭遇した20代が社会の矛盾を目の当たりにした時に出会った本なんだろう、科学技術がこれからどう発展していくんだろうという興味より、そこにある自然に感じるものがあるかが大事なんだと思ったのかどうかは、定かではない、が明治時代に書かれた三坪の庭は、70年代でも、今の2020年代でも変わりなくある。時代がどれだけ科学が進歩しようともその自然が持つ普遍性は変わらない

 たまにはこうして昔感じたことを思い返してもいいなあと思った、それも諦めないで

ひょっとしたら人間ってそんなに進歩していないかもしれない、いやもしかしたら退化しているかもしれない、と気づくことがあるかもしれないから


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