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執筆者の写真中山 孝一

ケン・ローチ監督


ケン・ローチというイギリスの映画監督の映画を二作品見た。最初は家でプライム動画で見た「わたしは、ダニエル・ブレイク」、次に先日妻と桜坂劇場で見た「家族を想うとき」

 どちらも内容は現代社会に潜む大きな矛盾、理不尽さ、不公平さ、差別化等をどこにでもいる生活者の立場から鋭く捉えていて、それがものすごくリアリテイーに溢れる撮り方をしているのでとても映画とは思えない、その点から妻としては不満げだった。映画らしくハッピーエンドを望んでいたようだ

 「わたしは、ダニエル・ブレイク」は年老いた大工が病気をして収入が途絶える。そのために障害年金をもらうための手続きをするが、社会がかくもデジタル社会になっていることになすすべも無くなっていく過程をリアルに描く、これはまさに今日本でも起こっていることだろうなとひとごとでは無くなった。全ての手続きがコンピューターを通さないといけなくなった社会である。しかし今だにそれについていけない人はゴマンといる。舞台はイギリス、ヨーロッパでは社会福祉は児童に厚く老人には薄いという、日本の反対である。昔の手書きでの方法は完全にこの世からなくなるのか

 一方の「家族を想うとき」は、これも失業した中年男性が再就職をする。家族は介護士の妻と、子供二人再就職は厳しく、やっと個人事業者としての契約配達員になる。そのために車をローンで仕入れる。仕事は契約だから保証はなく休みも取れない、家族のために必死に働く、妻も理不尽な労働を強いられ切れそうになる。その環境から子供が問題を起こし時間の自由がない二人にはどうすることもできない状況に追いやられる。そんな状況を自然な撮り方で迫る。だが両方とも最後がわからない

 最後がわからないようにして、それを観る側に投げかけているようにも思われる。

まず社会の現実を普通の家族を通して見てみる。確かにそういうことがある。しかし、それはそうであっていいのだろうか、改革の糸口はないのだろうか、いや改革そのものを求めているのだろうか、と問えば難しい、大きな機関の制度は下へ下へと国の隅々まで展開するとどうにもならなくなる。国民は諦めをしいられる。それが国家権力の狙い目とも思われる。国民総無気力化だ

 ケン・ローチ監督は一貫してこれらの問題提起を行なっているようだ、最初はなかなか関心を抱く観客がいなく不遇の時もあったようだが、その後不屈の精神で問題を直視して精力的に仕事をこなしている。

 僕はまだこの二作品しか見ていないが、ここから考えさせられるものは多い、それは我々自身が問題提起を起こし、そして行動する。という過程を持たず。すぐ何かと批判から始めることに慣れているということではないか、テレビではいつものような顔ぶれのコメンテーターが一様に同じようなコメントに終始する。それをみる国民は一様に首を縦にふる。首をかしげようとはしない。仮におかしいと思い首をかしげてもその行き先がない、あまりにも反対勢力が弱く、反対行動もなく、結局諦めるしかないのである、と気づく

 ケン・ローチ監督がここまで一生懸命に映画を通してその想いを世界中に発信していることの意味はすごく大きいと考える。これを機にそこら中にある理不尽さを拾い出し、改革の糸口を見つけようと思う


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