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執筆者の写真中山 孝一

沖縄一無愛想なドアマン


 昨年から店の前で立つ、ドアマンという仕事をしだした。

 初めはドアボーイといったが、この歳にボーイはないだろうということでドアマンということにした。しかしドアマンの仕事がなんなのかはわからない、だから小桜流ドアマンの形をこれから作り出すことにした。決して呼び込みの部類とは違う

 以前から思っていることがある。それはいろんな店の前に立つ呼び込みのこと、皆一様に元気よく、「いらっしゃいませ!」とか「美味しいですよ!」とか、叫んで客を呼び込んでいる。

それが店として当たり前だと思っている。果たしてそれは正しいのだろうか、どんな飲食店でも料理を作る側は一生懸命に味をひねり出して、その作り人の一番美味しいというものをメニューに掲げるだろう、だからそれは自分自身が自信を持って出していいはず、それに共感して美味しいと思ってもらえる人が客になり、顧客になる。そう思わない人はその店には来なくなる。

 これが店として成り立つ道理である。と考える。これは店をやる側がイメージを表現して、その評価を社会に投げかけているようなもの

 だから、無理やり客を呼び込まなくてもいいのではないかと思う。

 僕は元来無愛想な性格なので、お客さんに愛想よく振る舞うという行為が大の苦手である。それを克服しようとなんども挑戦はしたが、どうも愛想よく振る舞うたびに余計に不自然さが出てきて、疲れた。ストレスが溜まった。だから自然体で行こうと決めた。別に人間嫌いでもない、いやむしろ好きである。人間に興味がある。だから自分なりの接客をと考えた。

 以前まで厨房にたっていたので、カウンター越しに客の出入りがわかる。お客さんが入ってきた時一応「いらっしゃいませ」という、しかしその声がどうも腹から出なく、低く小さい声なので、お客にとってはホントに自分がきて嬉しいのかと思う。そしてなんと無愛想な人、さらには、怖い人、というイメージができてしまう。しかし僕はおかまいなしにその態度を貫いた。

 と言っても話好きな性格でもある。意外ととことん人と付き合える。だから、その後は結構和気あいあいな感じが出てきて、僕のイメージがどんどん変わってくるようだ。帰り際には喜んで帰られる、と、勝手に思っている。

 最近の飲食店はマニュアルの接客というものがある。とにかく愛想を振りまくというのもそのひとつだろう、しかしそれは自然体ではないので、どこかでボロが出て、客は察知する。

 不自然な愛想がわかり、がっかりするのと、始めは無愛想だけど、実はそうではなかった

この両者のギャップはどちらに好感度を与えるだろうか

話を戻す。この手法でもないが、無愛想なドアマンを貫いている。

 お客さんが「どんなメニューですかか?」の問いには、「入ればわかります」と答える。「美味しいですか?」には、「ご自分で判断してください」という、どんな美人と顔を合わせても、決して「いらっしゃいませ!」とは言わない、この無愛想な、強面のドアマンを振り切って勇気あるものが、このドアの向こうに行ける。そういう人が来て欲しいと願いながら今日も立つ

                       2018.8.26 ノットテニスの日の朝


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