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  • 執筆者の写真中山 孝一

同級生


 4年前、同級生が小さい飲み屋を開いた。今僕らは66歳だから、62歳の時の英断だ、奥さんにも黙って、勝手に開いた。そこにいけば誰か同級生がいる。とってもありがたい存在だ。

 その前にも同級生がやっていた店があった。そこは5年前、開店して30年を前に閉店した。開店当初はものすごく繁盛していた。もう一軒繁盛していた同級生の店もあった。がそこも閉じた。

 同級生の店はなかなか儲からない、なぜか、それは同級生が来るから、同級生は客にはならない、あくまで同級生なのだ、同級生の店には同級生しかこない、だから儲からない、同級生のサロンになる。皆が昔の学生時代の話で盛り上がる。それも、何度行っても同じ話で、だから儲からない。それをわかっているのわからないのか、店を出す。

 だから、とってもありがたい、先日も久々に行った。新年の挨拶を同級生にやるには手っ取り早くできる。この歳になると、生存を証明しなければいけない、俺はまだ生きてるぞーっと!

 話はこの年にありがちな話で盛り上がる。誰それの噂だ。誰は脊柱狭窄症、誰は脳梗塞、誰はなになにガン、誰は生活保護に入った。とかとか、隣の彼も目がやられ、自分で酒を作れず、肴を摂る手もおぼつかず、と言う程だった。いつのまにか65歳の二度目の定年をむかえて、それぞれの人生が大きく変化する。

 でも、やはり同級生の集いは楽しい。これまで多くの鎧を被せながら駆け抜けた社会での事柄を、全て忘れさせるし、そういうことを払拭させる力を同級生は持っている。一瞬にして過去に戻らせてくれる。現在進行形ではなく過去進行形になる。やはり気になるのは当時の女子のこと、この話は永遠に続くのでは、と思うぐらい、懲りない男の子たちがいる。

 この歳になって、酒場をやる覚悟は相当なものだと感服する。それは長年自分が経験したからだ、飲み屋というのは難しい、それはあくまでも人間関係の最たる環境に首をつっこむということだ、よくいう、会社を辞めた理由はと、それは人間関係がうまく行かなかったからです。と、ほとんどそれではないかと思うぐらいだ、それほど人間と人間の関係がうまくいくことが難しいことなのだ、それをあえて、この年でそこに入っていくのは相当な覚悟が必要だと思っている。

 この人間関係の難しさを乗り越える方法がある。それは、笑うしかないと思うのである。人間生れて来たら、死ぬしかない、今東光おっしゃる、「人生は冥土までの暇つぶし、」だと思えば、少々の腹立たしいことも笑って過ごせる。となる。

 最近、その腹立たしいことがいくつかあって、物申した。がその後なんだか虚しさを覚えた。

 そういう、日常のことを忘れさせ得るのが同級生の力だ、こういう人たちが周りに多くいることは、それこそが幸せなことなんだ、これまで、仕事優先のあまり疎遠になっていた同級生と、集える場所を作ってくれた、「有銘くん」、には本当に感謝!

 ちなみに彼は中学のバスケのヒーローで、愛称もヒロー、そして、みんなのヒーローである。

「有銘くん」の店、「泊泊」(はくぱく)をいつまでも続けてくれ!有銘くん、頼む!


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