かれこれ17年ほど前、小桜のポストに何ヶ月かに一回業界紙が入れられていた。
見ると「醸界飲料新聞」と書かれていた。後に仲村さんとつながる瞬間だった。
当初気にもとめてなかったがその後泡盛に興味を持ち出しこの新聞の発行元を訪ねようと思い立った。新聞だから小さくてもビルぐらいに入っているだろうと、旧真嘉比あたりを探し回ったが見つからない、電話して聞いてもわからない、ようやく見つかったのが一時間後、驚いた!普通の一軒家の玄関にでっかい木の看板に「醸界飲料新聞社」とある。恐る恐る引き戸を開けると、又ビックリ!玄関から入ってすぐの畳間の部屋の真ん中で鉢巻姿の老人がきっーと僕をにらみつけるのだ、それが仲村征幸さんとの初めての出会い。
新聞の校正をしていたようで、パソコンのある時代で、なんともまあ気の長い作業をしてるもんだと感心した。作業の手を止め僕の話にのってくれた。いかにも頑固親父風な相手をどこから切り出していこうかと頭の中の細胞は動きぱっなし、しかし時間が立つにつれ相好がくずれていく、やはり「泡盛」が好きなのである。どんな質問でもにっこりしながら丁寧に答えてくれた。そのうち中山君これ飲んでごらんと押入れから古酒を、さらに畳の下からも、何時間居たのだろうか、どれも特上の古酒を頂戴した。
それから仲村さんとの付き合いは日を増して濃いものになっていく、ある時は取材の同行、あるときは僕が取材を受けることも、忘れてはいけないことが竜宮通りの泡盛勉強会、これには率先して尽力いただき、「まさひろ」の比嘉酒造の見学会、更に「久米島の久米仙」には飛行機のチャーターでの見学とどれも仲村さん無しには出来得ないことであった。
が、けんかもよくした。どちらも譲らない性格なので、こと泡盛談義が始まると自分の主張を貫こうと言い合いになることもしばし、これも情熱のなせる業か、特に後半泡盛の古酒表示に関しては二人とも真剣に議論した。
新聞を始めた頃世はウイスキー時代、小桜でも泡盛はカウンターの下に恥ずかしそうに「瑞泉」と「瑞穂」の一升瓶が置かれていた。そんな中で「頭はたしかか!」とののしられながらも始めた「醸界飲料新聞」、今小桜では真正面に全酒蔵の酒が並ぶ、現在の泡盛の隆盛は仲村さんの執念にも似た戦いなしにはないのである。私たちはこれからも仲村さんが提唱した、「泡盛は文化」の開花を目指しその遺志をつなげたいと思う。
昨年12月31日最後の「醸界飲料新聞」が届いた。何故かすぐに配りだした。竜宮通り、桜坂、国際通りと、こういうことは初めてだった。
仲村さんの声が聞こえたかもしれない、「中山君頼む!」と
合 掌