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中山 孝一

新里修一に送る


又一人泡盛の星が亡くなった。

新里修一 彼こそ500年の歴史を誇る世界の蒸留酒文化の中でも東洋を代表する沖縄の泡盛を救ったともいえる人物ではないか、過去幾人もの杜氏が悩んだあふれ出すもろみを抑え生産量を格段に押し上げた101酵母を生み出したのだ、この酵母のおかげでどれほどの泡盛職人を救ったか計り知れない、修一は那覇の久茂地小学校、那覇中学校、そして小禄高校を出て、醸造界では定番ともいうべき東京農業大学醸造学科を卒業、本来なら長男である彼が継ぐべき家業の新里酒造に入る予定を研究畑の性格か国税で酒質をあげる研究をはじめ各地を回ったと聞く、沖縄の泡盛に着手したとき先に述べた画期的な酵母101号をつくりだした。20年ほど前竜宮通りで泡盛勉強会を開いた、そのとき講師を修一にお願いした。受ける生徒はみな飲み屋のおばさんたち、当初不安を感じながら実施した。が難しい話をわかりやすく丁寧に泡盛を伝えてくれた。中でも101号酵母の例え方は今でも鮮明に覚えている。いわく、あふれ出す歩留まりの悪い泡盛の原因は悪い菌が混ざっているから、その菌は例えていうと世界の人口60億人の中から一人の不良少年を見つけそれをつまみだすぐらいの確立、とユーモアをまぜて語ってくれた。言葉にすると簡単だが、気の遠くなるような作業を重ねての発見だったと推測する。修一の泡盛に対する情熱と忍耐強さのたまものが今の泡盛業界に与えた功績は計り知れない。

 その後国税主任鑑定官から家業の新里酒造に入る。新里酒造は泡盛業界では一番古い酒造所である。が戦後全ての酒造所は戦争で破壊された。全ての蔵元は一からのスタート、細々とした泡盛作りがはじまった。私の記憶でも新里酒造は那覇を転々とした後牧志の住宅街の一角(現在ジュンク堂の向かいコスモ保育園)小さな場所で泡盛を作っていた。その後コザ市(現沖縄市)から沖縄市には昔から泡盛の蔵元が無いのでと誘致がかかり、手狭な牧志を離れ沖縄市に移り、沖縄市の顔になった。そこでは修一氏の研究家としての顔だけではなくではなく経営者の面でも遺憾なく実力を発揮、その成果は現在の工場の威容さをみてうなずける。

修一は私の中学、高校の同級生でもある。あの当時の印象は部活もしていなくてさして目立たない、もの静かな、決して周りと波風をたたせない人物だったと思われた。

 が、意外とやる男だったのである。女子にも目もくれない風をよそっていた感だがいつの間にか、誰もわからないように射止めたのが修一の奥さん、ゆみ子さんだ。

 彼女は小禄高校のまぎれもないマドンナであった。何故あの修一が彼女を射止めたのか未だ同級生仲間では謎中の謎である。

 しかし今思う、それは世界60億人の中から一人の不良少年を見つけ出すより比べ物にもならないたやすい事だったことかもしれない。と。       冥福を祈る。


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