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執筆者の写真中山 孝一

牧志界隈を歩く その十七

 牧志3丁目はスポットが盛りたくさんある。国際通りの中心は旧三越(今はのれん街という飲み屋街)に、平和通り界隈、桜坂界隈、そして竜宮通りと、戦後、この街の発展に大きく寄与した地域だ、沖縄一の繁華街「桜坂社交街」が那覇市の開発地域になりほぼ無くなったのは残念でならないが、同じ地域に細々と続いている、小さな横丁「竜宮通り」が健在なのは嬉しい限りだ。

 昔は、夕方になると竜宮通りの入り口の「牧志交番所」前で、ハイヤーが次から次に止まると、中から出てくるのはかっぷくのいい紳士たち、沖縄の政財界のお偉方だ。まずは竜宮通りにある、小料理屋、割烹、料亭、等で腹ごしらえする。その後「桜坂社交街」のクラブ、サロン、キャバレー、カフエーに繰り出す。そして夜も押し迫る12時前後、また竜宮通りにもどる。今度は店のかわい子ちゃんが付いてくる。竜宮通りの寿司屋、おでん屋、焼き鳥屋、餃子屋等でシメて、またハイヤーで帰る。これが日常の光景だった。


 「竜宮通り」の名の由来をよく聞かれる。はっきりしたことはわからないが、聞いた話ではこうだ、あの当時はどこでも工事中の道ばかりだった。道らしい道はないのに店はいつのまにかどんどん出来た、竜宮通りも小さな店が乱立しだした。ところが通り名はない、ある時、年配のママが工事をしている作業員に聞いたそうだ、「にーにー、この通り名前ないけど、いい名前ないね~」と、その作業員がいった。「きれいな乙姫がいっぱいいるから、竜宮城からとって竜宮通りにしたら」と、この話、ウソかマコトか定かではないが、いつのまにかそう伝わっていた。


 桜坂通りが飲み屋街なら、竜宮通りは食べ物屋街だった。寿司屋、割烹、小料理屋、おでん屋等、今なら居酒屋行けばなんでもあるが、当時は専門店街だった。餃子一筋、焼き鳥一筋と小さくも味のある店がひしめいていた。例えば通りの真ん中にあった、うちなー料理の「福」のママはとしちゃん、80歳を過ぎても背中がピンとしている。辻(チージ)仕込みのきれいな方言と身のこなし、ここのイラブー料理は天下一品だった。そして、店名が「餃子の店」は全て手作りのギョーザとオリオンビールしか出さない。さらに、おでんの「重吉」は48年間足し続けた汁が自慢だった。やきとり「灯」は寡黙な主人が仕込み、それを奥さんが丁寧に焼く皮は絶品だった。

 他にも名店といっていい店がいっぱいあったが残念ながら皆閉店した。それぞれが高齢で跡継ぎもいなかった。残したい味が消えていくのは寂しいものだ

 ところで、竜宮通りに接していたグランドオリオン(現在は屋台村)は映画だけではなく、本土のスターたちがお披露目会をするところでもあった。そのスターたちが夜は宴会をする。その場所は竜宮通りの真ん中にあった大きな料亭(名前は忘れた)だった。初代朝潮やら里見浩太朗やら松島トモ子やらが来ていた。かつては60軒ほどあった竜宮通りも現在は30軒ほどになった。しかし、不思議なことに空き店舗はなく、あってもすぐに埋まってしまうほどの人気の通りのようだ、昔は飲み屋街はひとかたまりでわかりやすかった。桜坂に栄町、前島に松山、現在飲み屋は分散した。都会化が進む那覇の真ん中に、昔から変わらず続く、静かで落ち着いた横丁の存在が、沖縄の酒場文化を継承していくことになるかも

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