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  • 中山 孝一

沖縄戦と琉球泡盛

 今日6月23日は、沖縄では「慰霊の日」といって沖縄戦終結の日となっている。しかし、あくまでも沖縄戦の終わりであって終戦ではない、6月23日に摩文仁ヶ丘で第32軍司令官牛島満と長勇が自決したことが沖縄戦は終結したことになっている。しかし、その後の本土の新聞の社説では「沖縄戦を教訓として本土決戦にのぞめ」と訴えたという。あくまでも本土決戦、一億総玉砕の布石としての沖縄戦だった。1945年4月から6月までの間、多くの沖縄県民が悪戯に殺された。

 3年前焼失した首里城の下に壕がある。ここは沖縄戦の本丸、第32軍司令部壕という。深さ20メートルから40メートル、幅3メートル、高さ2メートルの坑道を全長1000メートルも掘った。その作業に首里近辺の学生が駆り出された。完成した司令壕の中は幹部の個室、医務室、炊事場、浴室などが並び、女性の勤務員の他、何故か辻遊廓の芸者、料亭の従業員など、多くの女性もいたという、将兵ら1000名の食糧も数ヶ月分も貯蔵され、酒類はビール、日本酒、ワインに高級ウイスキーまであったという。1000名の同じ人間がいたとしても、階級の違いからくる差別の様相、理不尽な横行は想像に難くない

 米軍の猛攻も首里まで押し寄せてくることになるが、この壕の軍人たちはとんでもないことを行う。首里城の近くには泡盛の蔵元が多い。戦火が激しくなり蔵の住人らは泡盛を置いて南部へと逃げ急ぐ。そこに目をつけた地下司令部に待機していた上官が沖縄県の少年兵に命令する。「崎山町の酒造所へ行って泡盛を汲んでこい!」と、少年兵は米軍の襲撃におびえながら石油缶を持って酒蔵へ向かう、いっぱい詰めても恐怖で手が震えほとんどこぼしてしまう。「上官の命令は天皇陛下の命令」だと教え込まれている以上従わざるを得ない、なぜ、こんな理不尽な目に遭わなければいけないのか号泣したという

 この第32軍司令部壕はいまだに現存する。これまで取り沙汰されたことはあまりなかった。というより意図的に表に出さないようにしてたのではないか、1992年には国の予算で首里城が復元された。国の管理下に置かれた首里城の下に国が無理やり作った陸軍の司令室が明らかになると只事ではなくなる。なぜ首里城が破壊されたか、司令部を狙ったから、ということは自明の理である。

 第32軍司令部壕のカムフラージュとして国が率先して首里城を作ったというのは考えすぎだろうか。3年前の首里城消失から、首里城復元に向けて盛り上がりを見せているが、むしろ、第32軍司令壕の復元が大事ではないかと思う。戦争体験を語り継ぐものが減っていく中で、戦争遺跡の保存こそが、将来に向けての平和学習の要となるだろうから

 来月初旬「沖縄戦と琉球泡盛」という本が発刊されます。第32軍司令壕にまつわる話は本書にさらに詳しく書かれています。著者は上野敏彦さん。この数年沖縄に何度も足を運び綿密な取材をされてきました。沖縄戦の本も、泡盛の本も数多くありますが、沖縄戦と泡盛を結びつけた斬新な視点はこれまでない、沖縄戦の実態を数多くの証言から捉え、その中でも琉球泡盛が戦後の絶望的なところから如何にして現在のような発展を見せるようになったのかを紐解くという、実に読み応えのある一書です。是非ご一読のほどを


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