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  • 執筆者の写真中山 孝一

沖縄大衆カルチャー酒場 小梅3

「沖縄大衆カルチャー酒場 小梅」はまだ開業していないがこのタイトルは三つ目になった。先日、沖縄でも緊急事態がでた。今回は昼飲みもできなくなった。自称「昼飲み推進委員会」委員長を名乗っている僕の活動の場がなくなった。実に寂しい!

 昨年のこの時期、どうなっていたのかを見てみた。小桜は、初の緊急事態での休業要請を受け、4月6日から5月21日の解除まで46日間の休業を余儀なくされた。この間、デリバリー商品を考えたり、県外向けの真空パック商品の開発と、前代未聞の危機に対し、初の果敢な試みで、難局を乗り越えた。今年も変わらない状況になったが、昨年を乗り越えた自信が皆にはある。来年の今頃はきっと、あの二年、一体なんだったんだ!と笑っているだろう。

 さて、今回も「小梅」が入る建物のエピソードを伝えたいと思う。今から28年前の1993年4月に、「うの花」(現鳥拓)で、ある会合が開かれた。その日が第四木曜だったので、「四木会」という定例会になり、会場はのちに「安里屋」と「小桜」で交互に行われた。

 会の内容は、いわゆる異業種交流会で、そのメンバーは各界を代表する錚々たる面々だった。沖縄を代表する、作家、大学教授、ジャーナリスト、芸術家等々が語り合う、サロン的雰囲気だった。その後、多方面からもゲストを呼び講話をしてもらうことになった。そして、それについての座談を行う、という形式になった。多岐にわたる専門家の講話は聞くだけでも大変勉強になり、非常に楽しかった。

 ところが、その楽しみが、苦しみに変わっていった。それは、ある日の定例会だった。メンバーの一人が、せっかくだから会の内容を全部記録してはどうだろうかと提案したのだ。皆は大いに賛同した。そして、んで、誰に任せる?となった。その途端、皆が僕を注目した。メンバーは老若男女(30代から80代まで)誰が見ても一番の若造は僕だった。有無を言わさずとはこのことか、決まった。この会に入るのもおこがましいと思っていた僕にとっては、光栄な事なので、一も二もなくお引け受けした。しかし、何をどうやればいいのか全く見当がつかない、そこで

 僕をこの会に誘っていただいたジャーナリストの先輩にどうすればいいのか聞いた。そうだな、みなさんの話を聞いて、それをまとめて次回の会にレジュメにして皆に配ったらどうか、という、はい、わかりました。とはいった。それが苦しみの始まりだった。会のはじめは軽く雑談から始まる。そしてゲストの講話が始まる。ここから緊張がみなぎる、話の内容を一言一句聞きもらすまいと耳に全神経を傾ける。そして講話は終わる。ホッとしてペンを下ろそうと思いきや、これからが大変なのだ、次にこの講話の内容についての座談が始まる。あくまでも僕の任務は、”会の内容を全部記録する事”、なのだ。

 居並ぶ諸先生方も酒がすすめば、ただの飲んベーになる。整然と始まった座談もいつしか放談に変わる。何を言っているのか聞き取れなくなる。しかし、僕の任務はその放談すらも捉えないといけないのだ。当然毎回支払った飲食代の元は取れずに会は終わる。しかし、それ以上に得た価値は計り知れないものがある。その後、僕の作ったレジュメはかなりの脚色が入ったことはゐうまでもない。苦しみは楽しみに変わった。

 みんな酒場で大きくなった。といった人がいた。そう、酒場は保育園でもあり、大学でもある。



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