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執筆者の写真中山 孝一

沖縄大衆カルチャー酒場 小梅

更新日:2021年5月18日

 国際通りのほぼ真ん中に位置する牧志交番所を安里向けに歩いてみる。80メートルほど行くと交差点に出る。上をモノレールが走り、牧志駅の下にあたる。その交差点をまっすぐ渡ると橋にあたる。橋の名は”さいおんはし”という、”さいおん”とは”蔡温”と書く。琉球王国時代の高名な政治家の名前だ。その橋から目前に広がる立派な建物がある。そこが”さいおんスクエア”という名前の複合施設。故翁長前那覇市長が全力を注いで開発した地域だ。

 全力を注いだのには理由がある。国際通りは”さいおんはし”を境に戦後まで、那覇市と真和志市に分断されていた。それは国際通りの開発が始まった時期まで続いた。”さいおんはし”から突き当たりの安里三叉路までは真和志市になり地名を安里といい国際通りとは一線を画した。その後ようやく那覇市との合併を受け入れ安里地区も国際通りの開発に参画した。合併を受け入れた真和志市長が故翁長前那覇市長の父であった。

 <安里開発> それは親子二代にわたっての悲願ではなかっただろうか 

しかし、安里地区の開発はそう簡単にはいかない、国際通りの中心とは違いこの安里地区には多くの問題があった。それは”さいおんはし”の下を流れる安里川の氾濫である。台風や大雨でも地盤のゆるいこの地域はいつも水害で苦しめられた。反対側の牧志地区は被害なくても安里地区は毎回のように床上浸水の憂き目にあった。そのせいか未だに安里川の工事は続いている。

 それでも、国際通りは県庁前から安里三叉路までを繋げた、事実上の”奇跡の一マイル”とした。国際通りの面々はこれからの盛り上がりを大いに期待した。しかし、安里地区だけはどこか異質だった。まるで”さいおんはし”が国境のような感じの違う世界があった。

 国際通り中心街は、映画館、デパート、商店街等が多く、通って楽しい街並みができたが、安里地区はそういう施設は全くない、トラックや車が出入りしてるばかりの無味乾燥の街だった。

 それはこうだ、戦後直後の沖縄の物資(食料品、日用品)は本土のものより海外からの輸入品で溢れていた。その輸入品を扱う卸し問屋が、この安里地区に倉庫街を設けたのである。 その後、卸し問屋街は若松通りに移った(今の繁華街松山に、その後は浦添の西洲へ)安里地区はしばらく閑散とした時期が続いた。そして、数十年の時を経て現在の様相にたどりついた。 

 しかし、どう見ても国際通りの中心と比べ人の流れはなかなか”さいおんはし”を越えないように感じていた。ところが、ここ最近ある一角に若者が集うスポットができたようなのである。先の”さいおんスクエア”沿いを歩き、目を横に向けると”ホテルロイヤルオリオン”がある。その横奥に異様な建物が二棟見える。黒塗りのトタンで覆われた木造家、明らかに周辺とは異質である。

 これこそ、この地域に卸し問屋の倉庫街があったという証を残す貴重な建物である。昔、ある大手の卸し問屋が倉庫にしていた古民家を補強し、完璧な仕切りを施し、数軒の飲食店に仕立て上げる、という見事な変身を成し遂げた建造物なのである。

 この建造物が、この地域に息を吹き返した。ここを中心にして、いつのまにか人を寄せ付ける魅力ある店が周囲に一軒また一軒と増えた。閑散とした地域に光があたりだした。

 さて、本題の”沖縄大衆カルチャー酒場 小梅”とは?実はこの地域に加わることになった店の名前である。先の異様な建物、ではなく<歴史ある建造物>の一角、に登場する予定だ、沖縄の文化、食文化、酒文化の発信地と謳う。

 新たな歴史を生み出すことを期待したい。


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