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執筆者の写真中山 孝一

わんぱく戦争

 復帰前の沖縄の子供たちはたくましかった。台風のさなかは防空壕に入ってるかのようにふとんにくるみ、真っ暗闇の中ぶるぶる震えていたのに、台風一過の翌朝は道路に乱れ飛んできた物品を拾い集めるのに奔走し、早朝の飲み屋街は、ビールのすえた匂いや、立ち小便の匂いが脳天ををつく、そんな路地裏にある酒場のすきまにあるジングワー(小銭)を探し集めたりした。

 

 極付は国境超え、沖縄にはあっちこっちにアメリカという国がある。フエンスは国境になる。僕らの近くにもそれはあった。現在新都心といわれているところは広大な米軍住宅基地だった。青々とした芝生の上に立つ立派な住宅街だった。その住宅街の奥に野球場があるとの情報が悪ガキ連中の耳にはいった。行動を起こすのに反対者はいなかった。僕らは国境付近の警備の薄れた時間を見計らい侵入に成功した。まるで勝者になったような気分で「わんぱく戦争」のマーチを口ずさみ、青い目のママさんやそばかすだらけの子供たちを尻目に堂々と行進した。そして、見つけた。外野は芝、バックネットやベンチのある野球場を、時間を忘れて野球に没頭した。気がつけばあたりが暗くなりだした。猛ダッシュで国境に向かった。が、そこにいたのはカービン銃を担いだMP達だった。あえなく捕獲された。真っ赤にして英語で怒鳴っているが何を言っているのかわからない。そばの通訳が言った。「おまえら、撃ち殺されてもいいんだな!」といっていると、直立不動の悪ガキから泣き声がもれてきた。帰りは暗い一号線をトボトボと歩いた。

 

 こんな思い出ががあるからではないが新都心という地域はどうも好きになれない、美術館の前にはパチンコ屋があり、日本銀行の前にはサンエーがあり、広大な土地の真ん中の公園は普天間基地を思わせるし、誰も歩かない立派な歩道橋が二つ、これもチャンプルーというのだろうか

 あの青々とした芝生のまま返還された方がよかったかもしれないと思うのだが


 

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