友人が60歳を過ぎて開いたカラオケバーがやがて10年になる。客はほとんど同級生のジジーばかり、話題は身体の不具合と昔の話がなん度もなん度も繰りかえされる。それでも飽きないから不思議だ、皆話したそばから何をいったのか忘れるからと思いきや、人の話をほとんど聞いてないというのが実のようだ、話題はとっくに尽きてるが話はいつまでも尽きない、便利だ。
その店の正面のカウンター越しに特別なキープボトルの棚がある。当初1~2本だったボトルがこの数年急に数を増した。無茶をした同級生が生前残して逝ったボトルだ、このボトルが位牌になる。戒名ではなく見慣れた本名が並ぶ、店に行くたびにその棚にむかい各人の顔を浮かべながらウートートーするのが習わしとなった。
そんな店だから遠慮がない、しばらく顔を見せないと常連が「おー、まだ生きてたかー!、よかったヨカッタ!」と言われればまだましな方、ほんとに顔を見せない奴には「あいつ、逝ったって?」と誰かが言えば「まだみたいだよ」と誰かがいう。知らぬ間に殺されかねない。
数年前の同期会でのこと、ホテルの会場に思い切り着飾った前期高齢者が集まった。女子が受付を担当する。そこに現れたひとりの男性、会費をもらって名簿と照らし合わせる、と受付の女子が青ざめた。名簿にあったその男性の名前の欄の横に「没」と書かれていた。
どこでどう間違ったのかわからぬままだが、その男性には知られないようにして事なきを得たが沖縄ではよくある話のようだ、若い時に沖縄県外に出るといつしか連絡が途絶えるようになる。するとあっさりと「没」にするとか
我々の年代は昨年古希を迎えた。「人生七十年古来稀なり」という、昔は70歳まで元気に過ごせる事は稀だったようで古希をむかえると盛大にお祝いをした。ぼくの両親は古希どころか還暦のお祝いもした。今の世の中こんな年で祝いなどすると笑われる。どういうわけか現代の60歳、70歳は驚くほど若い、悠々自適や楽隠居なんて言葉は死後になりつつなるほど周りには現役が多い。巷では人生百年時代到来だと盛んに叫ぶ、反面、少子化もさらに進みそうだし、この先どんな社会になるのか想像もつかない、考えてもわからないから今をどうにか生きるしかないようだ
かつて、はちゃめちゃな人生相談をくりひろげた今東光に「人生って何ですか?」という質問に「人生は冥土までの暇つぶしや、だからこそ上等な暇つぶしをせなあかん」と答えたという。今東光といえば天台宗の大僧正でありながら小説、翻訳、絵画、政治家とあらゆることをやりつくしている。そのすべてが暇つぶしでやったということになる。やり尽くしたからいえる「人生は冥土までの暇つぶし」という一言はズドーンと響いた。
暇つぶしは得意だが上等な暇つぶしとなるとまだまだ修行が足らないようだ。
今度「まだ生きてたかー!」といわれたら、「おー、まだまだ修行中じゃ!」と答えよう。
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