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  • 執筆者の写真中山 孝一

ぼくと泡盛 5

 入手困難だった酒のもう一方の、宮里酒造の「春雨」について話そうと思います。那覇には7箇所の銘柄がある。首里に「瑞泉」「瑞穂」「崎元」「時雨」の4箇所、那覇近郊には「太平」「那覇の久米仙」と、この6箇所は見覚え聞き覚えがあったが、「春雨」というのは全く耳にしたことがなかったし、見たこともなかった。が、しかし「小桜会」で全ての泡盛を集めると謳ったからには、何がなんでも揃えなければいけない使命がある。と意気込んだ。目にしたことがないということは、どこの酒屋の店頭にもないということ、これは、津嘉山酒造のような休業中なのかと思い宮里酒造所に電話した。すると、電話口から聞いた言葉は一言「何にもないよ!」だった。 仕方ない「春雨」はやめにしようと諦めた頃だった。


 小禄に「泡盛館」という泡盛専門の店がオープンした。現在のイオン(あの頃は琉球ジャスコといった)のあたりだ、当時の小禄金城地域は軍用地の解放がされた直後で、だだっ広い空き地が広がっていた。そこに県内初の泡盛専門店がポツンと現れた。マスコミも大騒ぎした。なかでも泡盛館が目玉にした「この一升瓶の泡盛一本百万円也!」の記事はかなりのインパクトを与えた。オーナーの宮城昭義さん得意のパフオーマンスだった。この「泡盛館」、現在は首里寒川に移り、宮城昭義館長もさらにパワーアップして泡盛文化の発展に大いに活躍されている。


 ところで「春雨」だが、その「春雨」が偶然この泡盛館で見つかったのである。当時、宮里酒造は普段は作らなく、年一回の鑑評会のために力を入れていたという。泡盛館には「春雨」が、過去に「県知事賞」に入ったものが数本あって、その一本を手にいれた。結構いい値がついていたので一本にした。

 晴れて沖縄県の泡盛全46種が揃うことになった。手作りの酒棚を作り、46本並べると実に壮観だった。今では全然珍しくはないが、当時これだけの泡盛が一堂に並べられる光景はそうなかった。第4回目の「小桜会」は無事成功裏に終わったことはいうまでもない。


 やっと手に入った「春雨」はその後、普通に酒屋の店頭に顔を見せるようになった。しかし、あの「何にもないよ!」の一言がずっと気になっていたので一度工場を訪ねてみた。住所は小禄だが、周辺を歩く地元民らしき人に聞いても誰も知らないという、看板もないし、それらしき建物もない場所をぐるぐる回っていると、なんと目の前にあった。入り口は普通の赤瓦の一軒家、その側は雑草に囲まれた凸凹土の駐車場、その奥に暗い建物がある、入り口には猫がいた。そこが宮里酒造所だった。


 ある日、「醸界飲料新聞」の仲村征幸さんが小桜へ、目つきが悪く、口が悪く、しかも、やたら態度がでかい、どこをみても印象の悪い人を連れてきた。「中山くん!この人が宮里酒造の社長だ!」といった。すぐに納得した。あの時聞いた電話の声はこの人に間違いない、「何にもないよ!」は宮里社長だった。

 その後、話しているうちに、泡盛一筋、純粋に泡盛に人生をかけている風が伝わってきた。その職人気質の一面を見て悪印象が好印象に変わっていった。ただし、口の悪さをのぞいて


 宮里社長の自宅が小桜と近いこともあって、宮里社長は小桜の常連になる。来られる日は必ず電話がある。第一声は決まってこういう、「おい、バカヤローこうちゃん、今日いくぞー」である。?????


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