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みそぴー

web shopはじめました。

May 1, 2018

 かれこれ17年ほど前、小桜のポストに何ヶ月かに一回業界紙が入れられていた。

見ると「醸界飲料新聞」と書かれていた。後に仲村さんとつながる瞬間だった。

 当初気にもとめてなかったがその後泡盛に興味を持ち出しこの新聞の発行元を訪ねようと思い立った。新聞だから小さくてもビルぐらいに入っているだろうと、旧真嘉比あたりを探し回ったが見つからない、電話して聞いてもわからない、ようやく見つかったのが一時間後、驚いた!普通の一軒家の玄関にでっかい木の看板に「醸界飲料新聞社」とある。恐る恐る引き戸を開けると、又ビックリ!玄関から入ってすぐの畳間の部屋の真ん中で鉢巻姿の老人がきっーと僕をにらみつけるのだ、それが仲村征幸さんとの初めての出会い。 

新聞の校正をしていたようで、パソコンのある時代で、なんともまあ気の長い作業をしてるもんだと感心した。作業の手を止め僕の話にのってくれた。いかにも頑固親父風な相手をどこから切り出していこうかと頭の中の細胞は動きぱっなし、しかし時間が立つにつれ相好がくずれていく、やはり「泡盛」が好きなのである。どんな質問でもにっこりしながら丁寧に答えてくれた。そのうち中山君これ飲んでごらんと押入れから古酒を、さらに畳の下からも、何時間居たのだろうか、どれも特上の古酒を頂戴した。

それから仲村さんとの付き合いは日を増して濃いものになっていく、ある時は取材の同行、あるときは僕が取材を受けることも、忘れてはいけないことが竜宮通りの泡盛勉強会、これには率先して尽力いただき、「まさひろ」の比嘉酒造の見学会、更に「久米島の久米仙」には飛行機のチャーターでの見学とどれも仲村さん無しには出来得ないことであった。

 が、けんかもよくした。どちらも譲らない性格なので、こと泡盛談義が始まると自分の主張を貫こうと言い合いになることもしばし、これも情熱のなせる業か、特に後半泡盛の古酒表示に関しては二人とも真剣に議論した。

 新聞を始めた頃世はウイスキー時代、小桜でも泡盛はカウンターの下に恥ずかしそうに「瑞泉」と「瑞穂」の一升瓶が置かれていた。そんな中で「頭はたしかか!」とののしられながらも始めた「醸界飲料新聞」、今小桜では真正面に全酒蔵の酒が並ぶ、現在の泡盛の隆盛は仲村さんの執念にも似た戦いなしにはないのである。私たちはこれからも仲村さんが提唱した、「泡盛は文化」の開花を目指しその遺志をつなげたいと...

September 13, 2016

 1955年創業の小桜は今年2015年で60年を迎えた。

創業者は父中山重則、当時42歳、当時父は大阪の船会社の貨物船で機関長の職で東南アジアを行き来していた。たまたま沖縄に寄港したとき、田舎の親戚が営む料理屋を訪ねたときこう言われたそうだ。「この店の帳場をやらないか」と、これが私たち一家の運命を変えた。それからほどなくして「小桜」を開業した。その頃僕と母フミエ、姉加代子は、尼崎杭瀬の長屋で楽しく暮らしていた。あえて楽しくというのは当時昭和30年、戦後10年で皆の暮らしはまだまだゆたかと言うには程遠いものだった、しかし皆きらきらしていたように思えた。3歳の僕はでもそのように感じた。いわゆる運命共同体というのかお互いが助け合い励ましあいながら将来への夢を見ながら逞しく生きていた。それがとても楽しかったのである。今振り返ってもそう思う。心がゆたかであったと思う。

 

 そんな時にいきなり沖縄から移住の知らせ、沖縄はまだアメリカの統治下だったので簡単には行けない、何度も手続きで神戸港と那覇港を確か浮島丸とか沖縄丸とかの3千トンぐらいの船で行き来した記憶がある。最初に一家が落ち着いた先が小桜の一番奥の3畳間の小上り、カウンターのすぐ横なので酔っ払いの声が丸聞こえ、しまいに僕は泣き出す。そんなときは女給さんらが、泣いたら交番所のおまわりさんが来るよ、と脅かされて泣き止んだそうだ、その後家を転々とした、どの家も小さく、水は井戸を汲み便所は外で隣近所共同といういかにも貧しい生活ぶりだ、しかしここでも尼崎と同じく貧しくとも皆輝いていた。

 そういう時代の中でも小桜は毎日が忙しかったように思う、それは戦後復興のインフラ整備のため本土からの人たちがあふれ、さして繁華街もない那覇では貴重な店の一つだったのである。あの当時は地元の人は外での飲食は贅沢で、もっぱら自宅で家庭料理の代表、チャンプルーとかアメリカ世になったおかげで手に入る缶詰類、ポークランチョンミート、キャンベルのスープシリーズ、コンビーフ、鷲ミルク、等々、とかが溢れかえり沖縄の食文化が一気に変わっていた時だ。外での飲食はどちらかというと日本食、和食が中心だった、寿司に天麩羅、煮物や焼き物、小桜でも和食を修行した板前が何人かいた。当時は割烹「小桜」といっていた。ガスも電気も水道も完全には整備されていない時代によくやったものだと今思う、寿...

August 10, 2016

小桜メニュー物語

今年で小桜も60年になった。最近たまにあの頃のことが思い出される。創業時は割烹という形態だった。だからメニューも和食系、寿司、刺身、天麩羅、〆の鍋焼きうどん等がメイン、今のような沖縄料理はどこにも見当たらなかった。そもそも沖縄料理とか琉球料理とかがあること自体認識されてなかったと思う。

 あの小さな店に板前が二人ほどいた、戦後10年たった頃だから繁華街というものも無く、しかし戦後のインフラ整備のため本土からの大手の土建屋があふれていたので、どこの飲食店も繁盛していた。小桜もいつもお客でごったがえしていた。

 メニューに変化が出てきたのは1972年の復帰以降だと思う。その頃はフミエが店の厨房を仕切っていた。家庭の主婦だったフミエはまず板前の手さばきを観察して勉強し、やがて寿司も独学でにぎり始める、そして刺身のきり方、煮物、天麩羅等を覚える

時代は序序に琉球文化復活の傾向に入り、食べ物も見直されてきた。ヤマト料理に慣らされていたフミエも沖縄料理を覚えなくてはいけなくなった。突き出しに出していたのは、ジーマミー豆腐、これは親戚の大川さんの作るものを出した。チャンプルーは3種これは現在でも同じく、豆腐チャンプルー、ゴーヤーチャンプルー、ソーメンチャンプルー、作り方は今と大きく変わる。ゴーヤーなどは豆腐を握りつぶして入れていたので箸で食べにくかった、ソーメンはアジ塩で、味付けた。刺身はマグロ、赤マチ(ハマダイ)、タコ、シメサバ、シチューマチ、セイイカ、カジキ、えび等があり、寿司用にだし巻きやウニやシャコガイらが小さなネタケースに入っていた。ごはんも炊いていたので魚汁や魚の煮付け、チャンプルーなどは定食にもなった。その後ミミガーの和え物とかスーチカとかが加わる、ミミガーは本来ピーナツバター、酢、砂糖等で味付けするが、小桜でのミミガーは当時から変わらずゴマ醤油のあっさり味だ、たまに宴会のときはいわゆる沖縄風おでん、テビチが出る。豚の中味の炒めやら、牛モツ炒めもあった。

 50周年を迎える2005年から序序にメニューは変わる、というより変えた。

歩留まりの悪い生ものを無くした。いろんなものを試行錯誤しながら作りじっくり試食をしてもらい反応を見た。結果、塩ナンコツソーキができ、牛モツ塩煮込みが生まれ、スルルーの南蛮が出来た。全て生ものとは反対の日持ちがするもの、あの頃の出なくて...

August 10, 2016

 1997年から始めたお客様のポラロイド写真が壁と天井を埋め尽くす。4千枚にはなろうか、張り切れないものもたくさんある。当初酔った顔を撮ったことから酔顔と書き“すいがん”と読んだ、ある日お客さんがこの文字を“よいかお?”と聞いた。成程どの顔を見ても確かに“良い顔”だ、それから「すいがん」は「よいかお」になった。しかしポラロイドの会社がなくなりフイルムも手に入らなくなったことから現在はスマホでの撮影後アルバムに収めている。

一枚一枚見ているとそれぞれのストーリーが思い浮かぶ、ハッピーなものもあればもちろんそうでないものまで、不幸なところでは前日まで店で愉快に楽しく飲んで騒いで翌日仙台に帰ったAさん、仙台空港からの帰途交通事故で死去の報、又初の沖縄旅行できたカップル、それは楽しい旅だった、彼女からの電話、彼が突然死、楽しかった小桜での思い出の一枚がどうしても欲しい、と、すぐさま送る。また夫の不倫写真のとなりに座った本妻、「これなに、」と、夫の言い訳に僕も同調して繕おうとしたが妻はお見通し、「結構です。主人はこういうひとですから」と、うれしいところでは、サプライズのお膳立てでカップルが結婚までいき、更にその後子供を交えての家族写真、そういう小桜の子供たちの写真も増えてきた。また毎年12月の決まった日に来たおじいちゃんとその孫たちの写真はおじいちゃんが100歳近くなるまで続き、その後はおじいちゃんの写真を前にして飲むことになった。

1997年の3月まだ沖映通りにダイエーがあった頃たまたまカメラの特売をしていた。ポラロイドカメラが意外と安く確か5~6千円台だったような、そこで迷わず購入、まさかフイルムが10枚で2000円もかかるとは露知らずに・・・その後は買ってしまった手前何がなんでも(価値)のある買い物だった物にとしないわけにはいかない、そこで考えた。“1997年のお客様の顔”というテーマで一人ずつ丁寧に撮り始めた。更に一枚一枚ラミネートをして柱に手作りの額をつけての展示に少々満足していた。そしてそれは1997年限りと思っていた。それがいつの頃から二人三人、後は十数名でもオッケイということになり現在に至る。

問題のその(価値)について、一枚200円だから4000枚で80万円になる。これはでかい、と思うでしょう。しかしこの数十倍もの(価値)を生み出したのです。それは一枚の写真から輪...

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