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みそぴー

web shopはじめました。

September 14, 2016

この街

この街に来てやがて57年たった、わけもわからず沖縄と尼崎との行ったり来たりの日々は5歳のとき、何回かその行き来を終え、落ち着いた先がこの小桜だった、生活の場はカウンター奥にある3畳ほどの小上がり、本来ならお客用に使っていたものをとりあえずとどのぐらい住んだのか忘れた、板場が二人か、女給が何人かがいて毎日忙しくしていた、あの時はまだ戦後の復興途中のインフラ整備のため内地から多くの土木作業員とか地元の公務員が多く、最初はぽつぽつだった飲食店も、飲食街に、奥の、(今では桜坂という名で通っているが当時はまだ名はない、)通りもバーやキャバレー、サロン等がぼちぼち生まれだしいつのまにか沖縄最大の繁華街になった、5歳の僕は夕方店の準備に追われてる従業員をじーっと見ながら友達もいないのでいつも暇を持て余していた、たまに板場がキャッチボールの相手してくれたりしていた、今でも忘れない衝撃的なものを見た、店の向いは沖縄で一番大きな洋画館のグランドオリオン、大きな壁が立ちはだかっていた。その裏口だから映画が終わればがばーっと人が流れ出す、その壁に一番上の階まで続く長い階段があって、僕等は怖くてその階段には登れない、何故か、そこは外人の行き来する場所、慣れない外人は怖いものだった、ある日映画の切れ間だろうか3~4人の外人が一番上の踊り場から電柱の上に立ち何やらコインらしきものを下に投げつけている、それを下にいる数人の子供たちが取り合いをしている。外人が次はこれと言って大きく手を振り上げると下の子供たちが歓声を上げる。落とすたびに金額が違うのである、額が大きいと歓声が上がる。僕はこの一部始終を店のドアに隠れながら見ていた。

 どうしてこの光景が57年たった今でも鮮明に覚えているのだろうか、この光景が僕にもたらしたものは何だろうか、おそらくそれは、人に対しての関係性を慎重に立ち向かう性格になった初めかもしれない、この街に育ち、いろんなものが生まれるところから消えていくものまで見続けて、結局それは時代の流れに翻弄されている人間が大勢いて、人間の変化がもたらした社会になったものが現在続いている。

 若いときは焦る。これでいいかと自答する。今世の中についていかないと遅れてしまう、と、そして空回りの動きをする。焦るから、其処で思う、焦って何をしようとしてるんだと、そう思ったとき開き直る、元々自分には何...

September 13, 2016

 1955年創業の小桜は今年2015年で60年を迎えた。

創業者は父中山重則、当時42歳、当時父は大阪の船会社の貨物船で機関長の職で東南アジアを行き来していた。たまたま沖縄に寄港したとき、田舎の親戚が営む料理屋を訪ねたときこう言われたそうだ。「この店の帳場をやらないか」と、これが私たち一家の運命を変えた。それからほどなくして「小桜」を開業した。その頃僕と母フミエ、姉加代子は、尼崎杭瀬の長屋で楽しく暮らしていた。あえて楽しくというのは当時昭和30年、戦後10年で皆の暮らしはまだまだゆたかと言うには程遠いものだった、しかし皆きらきらしていたように思えた。3歳の僕はでもそのように感じた。いわゆる運命共同体というのかお互いが助け合い励ましあいながら将来への夢を見ながら逞しく生きていた。それがとても楽しかったのである。今振り返ってもそう思う。心がゆたかであったと思う。

 

 そんな時にいきなり沖縄から移住の知らせ、沖縄はまだアメリカの統治下だったので簡単には行けない、何度も手続きで神戸港と那覇港を確か浮島丸とか沖縄丸とかの3千トンぐらいの船で行き来した記憶がある。最初に一家が落ち着いた先が小桜の一番奥の3畳間の小上り、カウンターのすぐ横なので酔っ払いの声が丸聞こえ、しまいに僕は泣き出す。そんなときは女給さんらが、泣いたら交番所のおまわりさんが来るよ、と脅かされて泣き止んだそうだ、その後家を転々とした、どの家も小さく、水は井戸を汲み便所は外で隣近所共同といういかにも貧しい生活ぶりだ、しかしここでも尼崎と同じく貧しくとも皆輝いていた。

 そういう時代の中でも小桜は毎日が忙しかったように思う、それは戦後復興のインフラ整備のため本土からの人たちがあふれ、さして繁華街もない那覇では貴重な店の一つだったのである。あの当時は地元の人は外での飲食は贅沢で、もっぱら自宅で家庭料理の代表、チャンプルーとかアメリカ世になったおかげで手に入る缶詰類、ポークランチョンミート、キャンベルのスープシリーズ、コンビーフ、鷲ミルク、等々、とかが溢れかえり沖縄の食文化が一気に変わっていた時だ。外での飲食はどちらかというと日本食、和食が中心だった、寿司に天麩羅、煮物や焼き物、小桜でも和食を修行した板前が何人かいた。当時は割烹「小桜」といっていた。ガスも電気も水道も完全には整備されていない時代によくやったものだと今思う、寿...

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