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みそぴー

web shopはじめました。

January 19, 2019

 小桜のメニューにみそぴーというのが昔からある。いつの頃から出だしたのかは定かではないが、かなり以前から存在していた。僕が小桜に入った頃の突き出しは、小禄に住んでいた、大川さんが作る、ピーナツ豆腐とみそぴーかどちらかだった。みそぴーは小さい小鉢にたっぷり入っていた、多すぎて残す人が多かった。その頃は馴染みも薄く、名前もなかった。材料は奄美大島で作られる粒味噌とピーナツ、そして砂糖、これだけ。作り方はいたって簡単、まず皮付きのピーナツを油で揚げる。揚げたピーナツと粒味噌に砂糖をかけ、弱火の中ひたすら混ぜ合わせる。みそにピーナツがまとわりつくと完成となる。

 あの当時、味噌もピーナツも徳之島から送られて来たものだった。特に何も特産物がない島から親戚らが送って来た時だけに作る。だから常時あるメニューではなかった。

 ある日、内地から来た観光客が、突き出しとして出したみそぴーを食べ、いたく感動して、これは何というメニューかと聞いて来た。こちらは名前はなく、奄美地方で各家庭で食べられる惣菜なんです、としか答えなかった。じゃ、僕らが名前をつけようということになり、当時流行タレントの、酒井法子こと”のりぴー”にちなんで、味噌とピーナツだから、”みそぴー”にしようということになり、今に至る。

 その後、徐々に小桜の定番メニューになってくる。しかし、各材料の量が定まっていないので

味が一定しない、すぐ固まって食べにくくなる。という問題があった。ある日、ある食品会社から100個の大量注文があった。食品展に出品するという。これはチャンスだと思い、売れる商品になるようにと、色々考えた。まず一定の味を出し、食べやすくするにはと、各材料の量を決めた。そして何度も試作を重ねた。もうこれ以上みそぴーは見たくないという程の試作を重ねた結果、ほぼ満足のいくみそぴーができた。そしてパッケージの見栄えもと、市中に出回る商品を参考に、オリジナルのデザインを手がけ、印刷会社にラベルを作らせた。かなり見栄えのいいものに仕上がった。

 あとは、作るのみ。段取りよくやろうと備品も新たに揃え、作業に取り掛かる。母と姪っ子と三人が小桜で、作る、冷やす、詰め込む、ということを数時間必死にやった。

 結果、出品した100個は全て完売した。努力が報われた。

 あの時のことがないと今のみそぴーはない。いたって簡単といったが、実はそうではない...

January 12, 2019

「のんびりする」「ぶらつく」「目的もなくゆっくりうろつく」ということを、自転車ですることを和製英語でポタリングというらしい

 家を出てどこを行こうというあてもなく、とりあえず漕いでみる。平坦な道を選ぶ、近場から漕いでみると、だんだん目的が見えて来た。海を見に行こう、前島から若狭方面に、若狭小学校でサッカーを見て、うみそら公園へ、壁でボール付きをやる中年、バスケをやる青年、浅瀬で釣りをする人、そうだ、ここでラケットとボールを持って来てテニスと壁打ちをやり疲れたらビール片手に読書をすればいいんだと、また一人遊びのメニューを思いつく。波の上神社では中国人や、初詣の人でいっぱい。そういえば今日、成人式だと気づく、帰りに母校の那覇中よる。振袖の初々しい女子と、頭を丸め、眉を剃り、ハチマキに刺繍をあしらった袴のいつもの連中もうろちょろしている。校門前には昔、そういう姿をしていたことを忘れ、今は正義感ヅラをしている、親父の会、の連中が、いかにも騒ぎは許さんぞーという構えを見せている。

 袴の連中に「おめでとー!」というと、照れ笑いながらも、大きな声で「ありがとうございます!」と来た。実に素直な表情がいい、振袖の3人にもおめでとー!というと、実にいい笑顔で感謝の言葉が返って来た。成人式はこうでなくてはいけない、監視するよりどんな姿でも、これからの人生にエールを送らなければ。成人式の青年と監視の親父たち、20年後は、この青年たちもこんなオヤジになっていくのか、と想像すると、思わず声を出して笑ってしまった。

 ポタリング。いいものだ、たまには目的もなく”ゆっくりうろつく”のも、今までの人生をゆっくり振り返る。先日、ポタリングとは違う自転車を漕いで見た。はっきりした目的のあることで

 その朝銀行に住宅ローンの残額を確認、8月で終わる借金の残金を一括で整理しょうと思った。3時に近いので歩くより自転車だと懸命に漕ぎ、まず口座のある銀行でほぼちょうど下ろし、支払う銀行に向かった、予想通りの窓口のもたもたにイライラしながも、整理はついた。

 帰りの自転車は来た時より、ペダルは軽い。これからどこ走ろうかとも思ったが、いや、まずは一杯だろうと、とにかく家へ、その前に妻へ報告、重い肩の荷がおりたことの・・・30年の

 

 ポタリング、これからはこれでいこう、”のんびりする” あくせくしない、力を抜いてゆったりと事に...

January 8, 2019

 昨年末だから、平成30年、最後の平成の暮れを迎えた時、部屋の改造をしたところ、眠っていた。デルのパソコンが復活した。嬉しかった!、そこには約10年ほどの思い出が詰まっている。

 去年のある日、いつものように起動させたら、いきなり轟音ともいえる音とともに、一切の反応を示さなくなった。それ以来新しく買った慣れないマックを使用していたが、諦めきれず何度も、目覚めよデル!との思いで、試したがダメだった。

 僕のパソコンの歴史は古く、まだ世の中がワープロが主流の頃だから、平成7年ごろ、国際通りに、珍しくアップルショップがあった。今のドンキホーテの隣だ、何気に覗くと、可愛い女性が一生懸命に説明してくれた。何おかいわんすぐローンを組んだ、パフオーマというシリーズだった。どうしてあの時パソコンが欲しくなったのか、それはその前にナショナルのワープロ、パナソニックを使っていた。竜宮通りの事務関係などで必要だし、自分のアイデアをアウトプットするには便利なツールであった。そして単なるワープロ機能だけではなく、これで通信も可能ということを知り、雑誌や本などで調べ、ワープロ通信なるものを始めた。

 

 まず、ベスト電気で電話回線の工事を、と言っても、古いタイプをモジュラーにするだけ、簡単な作業だが、かつての日本電信電話公社はこういうことでも、高圧がかかる危険があるのでと、一般人には触らせようとはせず、工事費をふんだくるのである。回線の取り換え部品がベスト電器に普通に売られているにも関わらずだ、ここで世の中の不可解さの一端が見えた。

 そして、次に設定に入る。ワープロから、通信に関する約束事を、数値にして打ち込む、プロトコルというやつだ、専門誌とにらめっこしてしぶとくやった、次に通信を運営する会社へ登録する。当時の大手は富士通のニフティサーブとNECのPVバンというものがあった。ニフティーにした。確か登録料が1万ほどだった。ここまでするとうまくいくとオンラインできる。

 その結果は、一発で入ることができた。根性なしの僕がよくここまでと、自分で自分を褒めた

これから何をするのか、ここが問題、いわゆるコンテンツだ、その当時から泡盛に興味を持ち出し、各社の泡盛を集めだし、味も比較しだした、なぜみんな、久米島の久米仙と菊の露だけでこと足りぬのか、という疑問があった。好奇心はどんどん膨らみ、各蔵元を訪ねた様子、協同組...

November 17, 2018

 今から11年前の12月2日、那覇マラソンを走った。55歳だった。

その前年に開催された12月3日の日誌にこうある。来年は応援する側からされる側にと決意する。と、その翌日から死闘が始まった。翌日の12月4日には 初日、とぎれないよう頑張ろう、とある。それで2キロ走った。場所は奥武山公園のジョギングコース

 そもそも何故無謀にも54歳からマラソンのフル、42.195キロを走ろうと思ったか、これにはいくつかの経緯がある、この数年毎年小桜のランナーたちを国際通りで応援していた。その前日から前夜祭と称して多くのランナーが小桜で完走を期して派手に飲む、そして応援旗にそれぞれの決意を書き込み、それを僕ら応援団がその応援旗をかざして応援するということが毎年続いた。

 ある日、ランナーの一人が、「大将、応援するより走った方が楽しいよ、」という、冗談を、この年で、ボール競技は器用な面、野球、バスケット、バレー、卓球、テニスなどは得意な方だった、が、、マラソンと聞くともうダメ、小さいときかかった喘息がトラウマで長距離走と聞いただけで発作が起こりそうになる。中学入ってすぐの体育の時間がいきなりマラソンだった。といっても、外周150メートルほどの空き地を何周も走らさられただけだが、いつ発作が出るか気が気ではなく、だましだまし走った記憶が未だに忘れない、さらに高校では校内マラソン大会というのがあった。全校の男女全員走る。男子は10キロだ、恐ろしかった。

 その時は、入学してすぐ仲良くなった、オヤドマリ君という、バレー部で背は小さいが恐ろしくバネがあり、ジャンプさせればピカイチだった彼に、伴走をお願いした。人のいい彼は快く引き受けてくれた。それが一年生の時、そして二年生の時もやってくれた。3年生ではいわゆるサボりで逃れた。そのオヤドマリ君は病気で20代で亡くなった。

 話を戻そう。走った方が楽しいよ、というランナーが囁いた一緒に走ろう、という言葉が気になりだした時、出会いがあった。その後運命を変える人、梶山さんだ(人生は54歳から始まるを参考に)その年、2006年体重が劇的に7キロ落ちた。人は軽くなると走りたくなるんだ、ということを実感した。それから全ての事柄を明年の那覇マラソンに絞った。まず綿密に記録の残そうと、一年間のスケジュール表を作った。エクセルに月日、その日に走った距離、毎日の累計、月の平均と...

October 18, 2018

 

 「昔は良かったのにね~」、これが竜宮通りのママさんたちの会話だった。昔というのは那覇の街が復興し始め、桜坂とか竜宮通りとかの飲屋街が立ち始めた戦後10年経った頃だから今から60数年前のこと、その頃、いろいろ訳ありの女性たちの手っ取り早い仕事といえば飲み屋稼業、経験はなくても女は度胸でやりこなす、何せ競争がないから、店を出せば客は来る来る。

 店員の確保にも、離島から中卒の女の子をバンバン入れた。今では大問題になる違法行為をやっても取り締まられない、そしてヤクザもはびこる。飲み屋街での縄張り争いが起こる。戦後の動乱というやつだ、そういう時代を知っている女性たちは、悲しいかなその時代しか知らない。世が新しい時代をむかえていてもわからない。いつまでもいい景気は続くと信じて疑わない。

 其処で「昔はよかったのにね~」という挨拶が通り一帯はびこるようになる。客が週に何人か来ない店もざらになった。「どうして今日は客いないの、」と聞けば「ああ、今日は天気がわるいからねー」、「どうして今日は客いないの、」「ああ、今日は天気がいいから、みんなどっか遊びにいってるさ~」、「どうして今日は客いないの、」「もうじき選挙があるから、みんな忙しいんじゃないの、」 しまいには、「昨日は忙しかったけどね~」 となる。これが毎日の店の様子。

 時代に取り残されるというのは、経営者のせいだけではない、制度にも取り残されることにもなる。まちづくりに翻弄される。行政の開発の犠牲になる。女性一人が必死に、やっとの思いで立ち上げた城が無残にも崩されることはいくつも出くわした。桜坂が開発された前島に、そして松山に、久茂地に、と繁華街の転戦は続いた。しかし新天地に移っても一からのスタートは厳しい、軌道にのるまで時間がかかる。そのうち歳もとる。事情があっての飲み屋稼業、仮に20年、30年続いても子供に継がそうとは考えないし、子供も継ごうとは思わない。あえなく看板が降ろされる。しょうがないことかもしれない。

 が、これでいいのかこれからの社会、とも考えてしまう。振り返ると昭和30年代頃からの高度成長時代から急速に進んだ経済中心の世の中、日本中が開発され、昔のすがたが消されていくにつれ、いつのまにか国民もそれを期待していく人間に変わっていった。地元の古臭い商店街をなくそう、スマートなショッピングモールを作ろう、とか老朽化し...

May 1, 2018

 かれこれ17年ほど前、小桜のポストに何ヶ月かに一回業界紙が入れられていた。

見ると「醸界飲料新聞」と書かれていた。後に仲村さんとつながる瞬間だった。

 当初気にもとめてなかったがその後泡盛に興味を持ち出しこの新聞の発行元を訪ねようと思い立った。新聞だから小さくてもビルぐらいに入っているだろうと、旧真嘉比あたりを探し回ったが見つからない、電話して聞いてもわからない、ようやく見つかったのが一時間後、驚いた!普通の一軒家の玄関にでっかい木の看板に「醸界飲料新聞社」とある。恐る恐る引き戸を開けると、又ビックリ!玄関から入ってすぐの畳間の部屋の真ん中で鉢巻姿の老人がきっーと僕をにらみつけるのだ、それが仲村征幸さんとの初めての出会い。 

新聞の校正をしていたようで、パソコンのある時代で、なんともまあ気の長い作業をしてるもんだと感心した。作業の手を止め僕の話にのってくれた。いかにも頑固親父風な相手をどこから切り出していこうかと頭の中の細胞は動きぱっなし、しかし時間が立つにつれ相好がくずれていく、やはり「泡盛」が好きなのである。どんな質問でもにっこりしながら丁寧に答えてくれた。そのうち中山君これ飲んでごらんと押入れから古酒を、さらに畳の下からも、何時間居たのだろうか、どれも特上の古酒を頂戴した。

それから仲村さんとの付き合いは日を増して濃いものになっていく、ある時は取材の同行、あるときは僕が取材を受けることも、忘れてはいけないことが竜宮通りの泡盛勉強会、これには率先して尽力いただき、「まさひろ」の比嘉酒造の見学会、更に「久米島の久米仙」には飛行機のチャーターでの見学とどれも仲村さん無しには出来得ないことであった。

 が、けんかもよくした。どちらも譲らない性格なので、こと泡盛談義が始まると自分の主張を貫こうと言い合いになることもしばし、これも情熱のなせる業か、特に後半泡盛の古酒表示に関しては二人とも真剣に議論した。

 新聞を始めた頃世はウイスキー時代、小桜でも泡盛はカウンターの下に恥ずかしそうに「瑞泉」と「瑞穂」の一升瓶が置かれていた。そんな中で「頭はたしかか!」とののしられながらも始めた「醸界飲料新聞」、今小桜では真正面に全酒蔵の酒が並ぶ、現在の泡盛の隆盛は仲村さんの執念にも似た戦いなしにはないのである。私たちはこれからも仲村さんが提唱した、「泡盛は文化」の開花を目指しその遺志をつなげたいと...

July 20, 2017

伊江島マラソン

 昨年より始めた伊江島マラソンへの参加、これをチーム小桜の「伊江島合宿」と称す。

小桜にとっては書き入れ時の土曜日、年に一回ぐらいいいだろう、楽しもうと、画して

4月の第二土曜小桜は休み、「本日伊江島合宿のため休業いたします。」と相成った。

ここ数年の小桜のイベントは各地から人が集まる。北は北海道から南は福岡、今回もあっちこっちから小桜の精鋭が集まった。前日の金曜まず前夜祭を行う、そして翌土曜日の出発、前準備がこれまた本格的、まず横断幕の作成、各自を乗せる車の手配、今回は6台で、島だから船に乗らないといけない、そのチケットの手配、そして肝心の打ち上げの飲食の手配、走った後の風呂の手配、テント、バーベキュー等々と・・・・しかしこの準備がこれまたうきうきわくわくで、遠足の前のあの、ふとぅふとぅ感が湧き出て楽しいのである。

今回は総勢24名、宿泊先は妻伊津子の実家前田家、これだけ入るか?入るんだよねこれが・・・男は庭の芝生でとの話もあったが、その必要なくうまく収まった。

ところで肝心のマラソンは3キロ、5キロ、10キロ、ハーフとそれぞれがエントリーこれまた皆なんなく(ではないが、)完走、走る前の出陣式から走り終えた歓喜の叫びも会場一番の盛り上がり、さすがチーム小桜!その後手配済みの伊江カントリーでシャワー浴び、打ち上げ準備の前田家の庭に集まる。「全員かんそうしたぞー!!」の雄叫びで打ち上げスタート、後は例よって皆勝手に盛り上がる。木村氏のダブルマグナムのモエシャンから能登の銘酒菊姫は武蔵から、次々酒があく、生憎の雨にも関わらず皆積極的に楽しめる連中だ、ほんとにフアミリー、これが家族だ、適当な時間で皆いっせいに片付けだし、会場は家の中へ、又延々と飲みだし・・・気が付けば朝だった。

昨日で仕込んだオバー得意のソーキ汁の朝食を食べ、島内観光の予定だったが時間の都合で湧水(わーじ)のみに、11時の船で本部港へそのまま潤也の美ら海へ向かう、1時のショー、期待した潤也のMCは無かったが、その後のダイバーショーでは潤也が、今回はたっぷりとイルカにつかった、その後近くのレストランで昼食とり、恒例の癒し空間備瀬のふくぎ並木へ、其処でもみなおおはしゃぎ、その後解散式。お疲れ様でした。

今回二回目の伊江島合宿も大成功に終わった。思う、伊江島の前田家との縁が無ければこういうことはない、そして県外...

May 1, 2017

    

更にピアノ取り組む

                                        

 ピアノを始めて7年がたった。今64だから57のときからだ、その間ブランクがあった。だから始め覚えたものは、楽譜が読めなく手だけの記憶なので、弾けなくなったものも多く、もったいないと思う。が今年又意を決して始めた。

1月のイベント(寓話での結婚30年パーティーでのピアノ演奏)がきっかけで、7年前ミステイーとバートランドの子守唄とアズタイムズアゴーが出来たら死んでもいいですから教えてくださいと飛び込んだ西平音楽教室のことを思い出したのだ。

今回は寓話の屋良文雄さんのあとを継いだ次男のアーキーに指導をお願いし、ミステイーをはじめた。あきらめなくてよかったとつくづく思うことがある。それはこの年でピアノが出来る意外性が思いのほか他人に感動を与えることだ、当初恥ずかしさから電子ピアノでイヤホンをつけこっそりやっていた、が今は本物のピアノを臆せず弾ける。

弾いたものを自分で動画をとり他人に見せる。特に若い女子に見せる。自慢したいところを抑えつつ、しかし“顔つき”を確かにどうだ!という表情。こうして、「すごい!」という言葉から“いいね”をもらいモチベーションアップにつなげていく。少々誇らしげな気分になってくる。

さて今回のミステイーだが、これまで自分なりにやっていた習得法とは今回多いに違う。この年で無謀にも、音楽理論、ジャズ理論、コード理論等、音楽に関する基礎知識を学びたい、というところから始めたのだ。まあ何をやるにも年は関係ないが、昔から音楽全般が好きで聞いてはいるがこの挑戦はいつかやってはみたいと思っていた。今回は最後のチャンスだという思いだ。そこで効率よく学ぼうという発想から一回45分のレッスンを自分のペースに持っていった。

アイパットであらゆるピアノコードに関するサイトを検索して、まずコードの意味を理解する。まるで暗号のようなコードを解読する練習を繰り返し自分で赤まるをつけ採点した。久しぶりの学生気分は新鮮な感じが・・・少し理解が出来たところでミステイーの楽譜からコードを確認する。この作業を何回か繰り返した。家ではおもちゃのようなキーボードを購入、左手コードの練習に利用した。

こうして6回目のレッスンで全ての流れが出来た。右手のメロデイーはすぐに出来たので後はひたすら両指を動かす...

February 6, 2017

 昔のカネボウのコマーシャルで「フォア ビューテイフル ヒューマンライフ」というコピーがやたらテレビで流れていたような記憶がある。化粧品のメーカーなので全ての女性が美しい人生を送るために、わたしたちがお手伝いいたします。という意味なのか

 それをもじって「フォア クリエイテイブ ヒューマンライフ」という言葉を思いついた。 常に創造的人間たれ、と自分で勝手に約しこれからの人生こうありたいものだと戒めたことがあった。

“もの”と“こと”を作り出すというのは容易なことではない、模倣ではなく0からのスタートはかなりの柔軟性と想像力が要求される。それを実行するとなると勇気もいる。しかしそういう領域にはまれば抜け出せない魅力を感じるのかもしれない、多くのクリエイターはそういう世界にはまったのではないかと思う。

  

 この人類の歴史はまさに創造の繰り返しの中で出来たもの、芸術でも音楽でも科学でも。先人のその又先人の新しい発見をさらに発展させた歴史が今の文明があると考えると夢がある。ということは我々と同じ人間の遺伝子をもつ人間の仕業となると、僕たちも創造的人間たる可能性は多いにある。あるものを作り出す歓びを先人たちと共有できるのである。

 

 誰でもオリジナリテイーの溢れるものが噴き出してくると感動の渦にまきこまれる。その人にしかない独創性はさらに多くの人に感動をあたえる。このとき最大の幸福感が訪れるのであろう。これまで多くのこういう場面を見てきて思う。

 

 そしていつも自分もそうありたいと思ってきた。

どうすればそれが可能かを考えたこともあった。

 ニーチエの言葉に

「何か新しいものを初めて観察すことではなく、古いもの、古くから知られていたもの、あるいは誰の目にもふれていたが見逃されていたものを、新しいもののように観察することが、真に独創的な頭脳の証拠である。」とある。

 この人類史上の膨大な情報にはいくらでもそのヒントがある。其処に気づき新しい眼でとらえることで、独創が生まれる。

 「汝の足元を掘れ、そうすれば必ず泉がある」ともニーチエは言っている。忘れがちな足元、そこに目を開けば、人生が開けるか

よし!創造的な人間をめざして、今からフオア クリエイテイブ ヒューマンライフを

November 15, 2016

ある酒場で若いバイオニリストが言った、「バイオリンはスポーツです、小さいときから先生にしつこく何度も同じことを繰り返させられ体に徹底的に曲をしみこませる。それは野球、サッカー、体操、全てのスポーツと同じです。」と、それじゃーピアノも・・・

 5年前よりピアノを始めた。昔からの夢だった。が、57歳に成っていた。果たして指は動くだろうかと、でもとにかく始めなければ何事もはじまらない、実験だった。

 知人の紹介で沖縄ジャズ協会のピアノ担当の先生の教室へ行き、いきなり言ったのが。

「バートランドの子守唄とアズタイムゴーズバイとミスティが弾けたら死んでもいいですから教えてください!」と心では叫んだつもりだが多分普通の言い方、先生は怪訝な顔をしながらも、「じゃ、とにかくやりましょう、何からいきましょう?」と受けてくれた。

 これがはじまり、そこからの苦労話を少々はじめる。曲はのりのいいバートランドの子守唄を選んだ、これが大変、複雑なコードの多いこと、まさに死闘の始まり。

教室は45分で2000円の個人レッスン、時間はその都度お互いが開いてる日ということの週一、はじめは右手のメロディから、ここは曲知っているから指の押さえ方はでたらめでもある程度は、問題は左手、下手でも両手を使って初めて「ピアノができる」と思っていた。これから決死の覚悟でのぞむぞー!

まずコード選び、与えられた楽譜のコードをネットで選びそれを先生に見てもらう、何回かのチェックで決まったコードでひたすら練習の繰り返し、まさに冒頭のスポーツたる所以を思い知らされる。周りに迷惑かけないようにと電子ピアノもひそかに購入、イヤホーンをつけて汗だくになりながら頑張る。家族も今度は本気だなと今までと見方が変わる

そして頑張った成果、左手のコードが見なくても指が動くのである。得意げに先生を訪ねた。「じゃ、両手でやってみましょう」と言われて両手をピアノの上においた。ショック!

指1本すら動かない、全くのフリーズ状態、これはなんなんだ

これが実態、どうせ才能も無いものがこんな年からはじめても無理だろうと言い訳と諦めに入る。数年前ならこれであっさり止めている。ところが今回は違った。ゆっくりでいいから両手を動かした。すると序序に動き始めた。毎日頑張った。するといつのまにか両手がスムーズに動きだした。奇跡が起きた!         つづく

September 27, 2016

  小桜を入るとすぐ真上に額がある。そこに書かれているのが「和気満堂」

書いた人は川上南詠、本名川上 栄、小桜創業者中山重則の同級生である。氏は鹿児島大学の教授で日展書道の部の審査委員もされているとか、重則が生きているときだからもう30年以上前川上さんが沖縄に立ち寄られた、父重則はその数日前から大はしゃぎをしていた。僕のライバルが来ると、小さい頃からお互いを知りともに勉学好きでライバル関係だったそうだが、あの当時進学は誰もができない、まわりの援助で進学が決まったのが川上氏だったそうだ。それにしてもここまでの地位を確保されたのは郷里の期待に応えるべき相当な努力をされたのであろう、残された父重則もライバルでありながらずっと応援していたのを聞くとあっぱれだと思わざるをえない。さてその「和気満堂」の額だが、来沖のとき小桜の二階で氏を招いての小宴を開いた、その際父がお願いをして書いていただいたものである。

 「和やかな雰囲気が充満するお堂」と約していいものかわからないが、なんとなくそうとらえた。小桜がこれからもっとお客さんが喜んで集うところになるようにとの思いで書かれたのではないかと自分なりに理解した。いろんな人が集まる酒場はその器が生きているように感じられるときがある。無機質の単なる建物が息をしているようなことが・・・多くの人がその場で話し、笑い、泣き、たまには怒る。そういう人の行動を全て吸い取りそれがどんどん肥大していく、それは人の気が蓄積されたような感じがするのである。もし科学的にいって間違いなければ、気とは微生物ではないかと、それがいい菌か、悪い菌かによって、その店の雰囲気が変わり、人が集まる店とそうでないとこと分かれるといえば言い過ぎか・・・もっと言えば集まる人は細胞のようなものでもある。人間の体は細胞が新陳代謝をはかりどんどん新しい細胞によって形成される。店もこの新陳代謝がないといつか無くなっていく、限られた許容範囲では細胞の入れ替えがないと古い細胞だけではさびれてしまう、この新陳代謝人間の細胞と同じく自然となされる。自然とうまくいくものである。古いお客さんはいつかいなくなる。そして新しいお客さんがきだす。その時のスイッチ入れ替えのタイミングは重要である。それは店を運営する側の力量が問われるところである。古い客にエネルギーをそそぐのか、それとも新しい方にか、で店の成り...

September 14, 2016

この街

この街に来てやがて57年たった、わけもわからず沖縄と尼崎との行ったり来たりの日々は5歳のとき、何回かその行き来を終え、落ち着いた先がこの小桜だった、生活の場はカウンター奥にある3畳ほどの小上がり、本来ならお客用に使っていたものをとりあえずとどのぐらい住んだのか忘れた、板場が二人か、女給が何人かがいて毎日忙しくしていた、あの時はまだ戦後の復興途中のインフラ整備のため内地から多くの土木作業員とか地元の公務員が多く、最初はぽつぽつだった飲食店も、飲食街に、奥の、(今では桜坂という名で通っているが当時はまだ名はない、)通りもバーやキャバレー、サロン等がぼちぼち生まれだしいつのまにか沖縄最大の繁華街になった、5歳の僕は夕方店の準備に追われてる従業員をじーっと見ながら友達もいないのでいつも暇を持て余していた、たまに板場がキャッチボールの相手してくれたりしていた、今でも忘れない衝撃的なものを見た、店の向いは沖縄で一番大きな洋画館のグランドオリオン、大きな壁が立ちはだかっていた。その裏口だから映画が終わればがばーっと人が流れ出す、その壁に一番上の階まで続く長い階段があって、僕等は怖くてその階段には登れない、何故か、そこは外人の行き来する場所、慣れない外人は怖いものだった、ある日映画の切れ間だろうか3~4人の外人が一番上の踊り場から電柱の上に立ち何やらコインらしきものを下に投げつけている、それを下にいる数人の子供たちが取り合いをしている。外人が次はこれと言って大きく手を振り上げると下の子供たちが歓声を上げる。落とすたびに金額が違うのである、額が大きいと歓声が上がる。僕はこの一部始終を店のドアに隠れながら見ていた。

 どうしてこの光景が57年たった今でも鮮明に覚えているのだろうか、この光景が僕にもたらしたものは何だろうか、おそらくそれは、人に対しての関係性を慎重に立ち向かう性格になった初めかもしれない、この街に育ち、いろんなものが生まれるところから消えていくものまで見続けて、結局それは時代の流れに翻弄されている人間が大勢いて、人間の変化がもたらした社会になったものが現在続いている。

 若いときは焦る。これでいいかと自答する。今世の中についていかないと遅れてしまう、と、そして空回りの動きをする。焦るから、其処で思う、焦って何をしようとしてるんだと、そう思ったとき開き直る、元々自分には何...

September 13, 2016

 1955年創業の小桜は今年2015年で60年を迎えた。

創業者は父中山重則、当時42歳、当時父は大阪の船会社の貨物船で機関長の職で東南アジアを行き来していた。たまたま沖縄に寄港したとき、田舎の親戚が営む料理屋を訪ねたときこう言われたそうだ。「この店の帳場をやらないか」と、これが私たち一家の運命を変えた。それからほどなくして「小桜」を開業した。その頃僕と母フミエ、姉加代子は、尼崎杭瀬の長屋で楽しく暮らしていた。あえて楽しくというのは当時昭和30年、戦後10年で皆の暮らしはまだまだゆたかと言うには程遠いものだった、しかし皆きらきらしていたように思えた。3歳の僕はでもそのように感じた。いわゆる運命共同体というのかお互いが助け合い励ましあいながら将来への夢を見ながら逞しく生きていた。それがとても楽しかったのである。今振り返ってもそう思う。心がゆたかであったと思う。

 

 そんな時にいきなり沖縄から移住の知らせ、沖縄はまだアメリカの統治下だったので簡単には行けない、何度も手続きで神戸港と那覇港を確か浮島丸とか沖縄丸とかの3千トンぐらいの船で行き来した記憶がある。最初に一家が落ち着いた先が小桜の一番奥の3畳間の小上り、カウンターのすぐ横なので酔っ払いの声が丸聞こえ、しまいに僕は泣き出す。そんなときは女給さんらが、泣いたら交番所のおまわりさんが来るよ、と脅かされて泣き止んだそうだ、その後家を転々とした、どの家も小さく、水は井戸を汲み便所は外で隣近所共同といういかにも貧しい生活ぶりだ、しかしここでも尼崎と同じく貧しくとも皆輝いていた。

 そういう時代の中でも小桜は毎日が忙しかったように思う、それは戦後復興のインフラ整備のため本土からの人たちがあふれ、さして繁華街もない那覇では貴重な店の一つだったのである。あの当時は地元の人は外での飲食は贅沢で、もっぱら自宅で家庭料理の代表、チャンプルーとかアメリカ世になったおかげで手に入る缶詰類、ポークランチョンミート、キャンベルのスープシリーズ、コンビーフ、鷲ミルク、等々、とかが溢れかえり沖縄の食文化が一気に変わっていた時だ。外での飲食はどちらかというと日本食、和食が中心だった、寿司に天麩羅、煮物や焼き物、小桜でも和食を修行した板前が何人かいた。当時は割烹「小桜」といっていた。ガスも電気も水道も完全には整備されていない時代によくやったものだと今思う、寿...

September 1, 2016

 肉体改造を試みる。おおげさだが単なる何回か目のダイエット、いつも失敗してきた試みに今回かは本気で取り組もうと思った。この年になりこれからの事を考えると次いつ本気になるかわからないし、なってもこれ以上気力は起こらないと思うと今しかチャンスはない、この数年何回かは試みてはいるけど成果はでない、というか出る前に諦めている。これがいけないと最近思った。今回は4月の後半から初め現在6/23で二ヶ月、普通筋肉の変化はこの辺りで出るというが僕の場合はどうも違うみたいだ、脂肪の分解、燃焼のメカニズムをネットやら本やらで見てもしっかりとした筋トレを続けると二ヶ月では明らかに体型が変化するとある、それが起こらないのは何故なのか、方法もチェックしているので間違いはないと思う、体質の問題からもっと時間を要するのだろうか、だから今これで諦めてやめると、又以前のように後悔しか残らない、だからこう切り替えた。

 別に痩せなくても、体型がよくならなくてもいいではないか、こうして運動できる身体があるだけで満足しありがたく思おうじゃないかと、毎日のように通う奥武山公園にはいろんな人が来る。健康な人は野球やテニス、お年寄りでもグランドゴルフやペタンクやでいつも盛り上がっている。しかし健康な人ばかりではない、脳梗塞でも起こしたのか足を必死になって引きずりながらのリハビリの人たちも結構いる。そして施設から来た脳障害の若い人たちも散歩に来る。こういう中で自分なりに結構ハードなトレーニングが出来る喜びを最近感じてきた。不自由なく動く自分のカラダをもてるだけでどれだけ幸せなことなのか、からだが硬い、腹がなかなかへこまない、といつもいらだっていたことがこうした環境にいるといつのまにかこの身をいとおしく思えるようになる。自分の意思でこの身を大切にしなくてはと思う。更にこれだけ動けるのだから何かに役に立つことを考えなくてはと思うようになる。どこかの国の偉いさんが言っていた、日本の国には立派な言葉がある、それは「もったいない!」この言葉を世界中の共通語にしようと、確かにそうだもったいない身体が一杯いる。これらを集結してそのエネルギーをあるところへ持っていく、そうすると世界が抱えている多大な問題を解決できることに繋がるのではないか、とかを時たま奥武山を歩いたり、走ったりしたときに考えるのだが、僕の小さな頭ではこう考えるのが...

August 14, 2016

 

 朝は“ウイーン”という、電動コーヒーミルの音で目が覚める。

毎朝妻がコーヒーを入れてくれる。二人で飲みながらNHK朝の連ドラを見るのが日課となった。だいたい2~3杯は飲む。

 コーヒーとの付き合いは長い、中学生のとき勉強机の上に盆をおいて、そこにマキシムのインスタントと魔法瓶にいつもお湯を準備、ちょっとした大人の気分を味わっていた。だからコーヒーばかり飲んで勉強はちっともやらなかった。その後、大学でのひとり暮らしのときもインスタントが続いたが、4年の卒業研究で一緒になった友人が大のコーヒー好きで、毎朝、豆を電動ミルでひいた新鮮なおいしいコーヒーを研究仲間6人に振舞った。研究室はいつもコーヒーの香りが充満していた。

 いつの間にか、 研究テーマ「酸化チタン誘電体と半導体の研究」は「美味しいコーヒーを作るための最適なコーヒー豆の粉砕時間は」というものに変わっていた。

 

 その、豆を挽いたコーヒーのうまさに入ると、もうインスタントは飲めない。早速通販でサイホン式のコーヒーセットを注文した。着いた初日、近くの友人、坂本くんと真喜屋くんを呼び、お披露目会をやった。皆で酒を一杯やった後、そろそろコーヒータイムにしょうかと、セットに入っていた手動のミルで豆をひくと小さい部屋に何ともいえない香りが部屋いっぱいに、皆期待した。取説を見ながらサイホンを組み立てた。そこまではよかった、そこで気がついた。熱源のアルコールランプのアルコールがないのに、3人はろうそくの火をあてられたサイホンを囲み、勢いよく沸騰してコーヒーが抽出される様子を想像することだけをその後数時間続けた・・・

 

 その後社会人になった。学生時代と比べ部屋にいる時間は少ない。手間ひまかかるサイホンは押入れの奥に納まった。その代わりに来たのが、ドリップ。一人用の陶器のドリッパーと専用のケトルを購入、朝の弱い僕の毎日は、起きるとすぐさまコンロに火をいれる。沸騰するまでの間、急いで出勤の準備をする。そして一杯分のコーヒー豆をミルにいれ引くと、電動ではないせいか、香りがひときわ立つ感じがする。しばらくこの香りを楽しんだ後は気を静めて、ケトルをつかみ、蒸らしからはいり、基本の「の」の字を意識してゆっくり回し入れる。よしっ!上出来と、一気に飲む。この一杯で目が覚め、俄然やる気がでる。

朝のひと仕事を終えた昼食後のコーヒーもこれ楽しみ。会社の近...

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