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みそぴー

web shopはじめました。

March 15, 2019

 

 うえすぎようざんと読む、この人物のことを知っている日本人は果たしてどれだけいるだろうか。僕が最初に目にしたのは、昔、ある新聞のコラムにのった、「上杉鷹山の経営学」という本の紹介だった。興味を持ったので、すぐに読み始めた。その初っ端に書かれていたのが、アメリカ大統領のジョン・F・ケネディに日本人記者がインタビューで、「あなたが一番尊敬する日本人は誰ですか?」の問いに、ケネディは即座に、「上杉鷹山」と答えたということからの始まりだった。

 それから読み進めて行くと実に面白いことがわかった。その日本人記者は、上杉鷹山のことを知らなかったようだ、なぜに日本人が知らないのに、ケネディが知っていたのか、それは、明治時代の代表的な作家に、内村鑑三がいる。その著「代表的日本人」をケネディは読んでいたのである。キリスト教信者である内村鑑三は、日本を代表する歴史上の人物5人を選び、それを各国の言語で世界中に紹介したのである。当初英語で書かれていたものを、和訳にされたものが、いま手元にある「代表的日本人」である。

 5人の人物とは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人、である。実は、この本、昔に読み終わっていたものであることがわかった。それをすっかり忘れていて、「上杉鷹山の経営学」を読み、再度の購入になった。いま改めて読むと、忘れていた感動が蘇ってきた。

 なるほど、ケネディが尊敬する日本人としたのが頷ける。それは同じ政治家としての精神を学んだのだろう、と

 上杉鷹山は17歳の若さで上杉家の養子に入り、衰退の一途の山形の米沢藩の藩主になる。当初100万石の大藩が30、15万と下がり、その国の民衆の様子は見るも無残な貧困にあえいでいた。それでも藩のお偉方は大藩の慣習が抜けなく、贅沢三昧で改革のノロシもあげないでいた。

 それを見かねた鷹山は、思い切った改革案を次々と断行していく、17歳の若さゆえ、幾多の困難が待ち受ける。しかし、最後まで貫いた精神が、民への愛であった。その深き愛が徐々に民衆にも、藩士の下から上までにも理解が及び改革は進んでいく。

 有名な話がある、初めて藩の様子を見て、これからどうすればいいのか考えている時、偶然火鉢の中の火が消えかかった。家人が、取り替えましょう、というと、それを制し、消え掛かった火種をじっくりと見た。よしツ!これだ、と気がついた。その火種は消えること...

March 8, 2019

「朝の空を見上げて、今日という一日が、笑顔でいられるように、そっとお願いした。」

という歌詞がある。この歌が好きである。

 NHKの朝の連ドラ、あさが来た、のテーマソング、AKB48が歌っていた。カラオケでもこの歌を歌う、この歳でこういう歌を歌うと意外性を誘う、それが楽しみだ。

 

 朝の空はいい、晴れても曇っても雨でもいい、その一日の始まりを実感するのには、まず朝の空を眺めること、今日も生きているということを感じることができる。その朝の空を眺めていると、思い出すのは、小さい頃から小児喘息で苦しんでいた頃のこと、風邪を引くと必ず発作がでる。それは小さい身にはそれなりの苦しさを味わうことになる。小学何年生だったか、その日も発作が出た。そんな時は、横になって眠れないのである。息苦しいから座って寝るしかない。

 どういう体制で寝るかというと、タンスに寄りかかり座って寝るのであるが、なかなか寝付けるものではない。うとうとしている間に、夜明けが来る。木造の小さい家の雨戸の隙間から朝の光が幾重にも差し込んで来る。それがとってもきれいなのだ。ああ、今日も生きられて、朝を迎えられたんだと実感する。

 何十年経ってもあの頃のことは忘れない、いや忘れてはいけない、一日一日の大切さを思うには・・・、あれから喘息は治り、今は曲がりなりにも健康な生活を送っている。が、これから何が起こるかはわからない、だから、朝の空を眺め、生きていることを確認して、大事な日々を送るようにしている。

 話は変わるが、先日、知人の某夫婦が来た。なんでもご主人の飛行機嫌いを押して、オーストラリアを旅したらしい、僕もかなりの飛行機アレルギーなので、そこのところを真剣に聞いた。寝れないので睡眠薬のようなものを飲んだらしい、夜中の便なのでいつのまにかついたという、そうか、そういう手があったんだ。僕の場合はいつも酒、ワイン一本が精神安定剤になる。

 あ、別にそういう話ではなく、オーストラリアでの人々のライフスタイルを見て氏が感動したことである。毎日、早朝から多くの老人がカフエーで談笑しているという、その光景はまず日本では見られないことで、ある種の衝撃を受けたという。笑顔で話し合う姿には、これまでの人生を謳歌したものや、いろいろあっても、余生を堪能しようと、これまでのことを切り替えたことが窺える人や、その人々の姿は、妙に清々しく見えて幸せな...

March 1, 2019

 那覇牧志の中心に希望ヶ丘公園がある。国際通りのテンブス館の裏手、この60年でこのあたりは見事に一変した。希望ヶ丘とは耳障りがいい、なぜこの名前がつけられたのだろうか、と今でも思う、僕にとっては、絶望ヶ丘公園なのだ

 関西から移り住んで、しばらく小桜で一家四人住んだのち、この希望が丘にある一軒のボロ家に引っ越してきた。当時は公園ではなく、丘の麓の貧民街であった。

 雨が降るとぬかるんだ小さい道を登っていく、畳はない、トイレは外、ハブも周りにいっぱいいたはずだが、ハブに注意の看板なんかはない。そこにどのぐらいいたのかも記憶の彼方になった。5~6歳の幼児だが、希望より絶望を感じたのを覚えている。

 その後、その貧民街は徐々に姿をなくし、公園へと変わっていく、小学生の時にはおそらく僕が住んでいたあたりは広場になり、そこで凧揚げなどができた。周りは高層ビルもなく、那覇を一望できる見晴らしのいい場所になっていた。徐々に絶望から希望へと向かう

 それを感じたのは、小学校の絵の時間で、その丘からの写生会があった時、他の生徒は大半が西側の、今の平和通り方面に向かって描き始めたのだが、僕は反対側の桜坂の飲み屋街を書いた。

 ここに住んでいた頃、丘から見る桜坂の飲み屋街のネオンが、それは美しく感じられ、貧民街から見ると、その場所が別天地で夢の国に見えたのだろう。それを書こうと思ったかもしれない、しかし、昼はネオンはない、よく見ると、皆トタン屋根にハリボテの派手な表装を施した店ばかりだった、だけどもがっかりはしなかった。そこにはこれからの時代に希望をもたらすような活気が感じられた。

 小さい頃、店のお客さんによく桜坂のクラブへ連れて行ってもらった。その時の写真がある。今では大事件だ、数歳の子がホステスの膝の上だ、ステージにはフルバンドのジャズメンが、その前のフロアーではペチコートを着たホステスたちがお客さんと踊り狂っている。

 この状況も、まさに夢の国だった。

 その、だったが、その後、音を立ててくづれていく、開発の余波がおとづれ、街は変わりだした。数百件あった桜坂の繁華街も、道路建設のため立ち退きを余儀なくされた。

 戦後できた繁華街はどこも活気に満ちていた。それはそれは元気なウチナーイナグが疲れはてていたイキガに元気を与えていた。が、あまりにも理不尽な立ち退き、やっと立てた自分の城を手放すことになった...

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