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みそぴー

web shopはじめました。

May 7, 2019

 昨年から店の前で立つ、ドアマンという仕事をしだした。

 初めはドアボーイといったが、この歳にボーイはないだろうということでドアマンということにした。しかしドアマンの仕事がなんなのかはわからない、だから小桜流ドアマンの形をこれから作り出すことにした。決して呼び込みの部類とは違う

 以前から思っていることがある。それはいろんな店の前に立つ呼び込みのこと、皆一様に元気よく、「いらっしゃいませ!」とか「美味しいですよ!」とか、叫んで客を呼び込んでいる。

それが店として当たり前だと思っている。果たしてそれは正しいのだろうか、どんな飲食店でも料理を作る側は一生懸命に味をひねり出して、その作り人の一番美味しいというものをメニューに掲げるだろう、だからそれは自分自身が自信を持って出していいはず、それに共感して美味しいと思ってもらえる人が客になり、顧客になる。そう思わない人はその店には来なくなる。

 これが店として成り立つ道理である。と考える。これは店をやる側がイメージを表現して、その評価を社会に投げかけているようなもの

 だから、無理やり客を呼び込まなくてもいいのではないかと思う。

 僕は元来無愛想な性格なので、お客さんに愛想よく振る舞うという行為が大の苦手である。それを克服しようとなんども挑戦はしたが、どうも愛想よく振る舞うたびに余計に不自然さが出てきて、疲れた。ストレスが溜まった。だから自然体で行こうと決めた。別に人間嫌いでもない、いやむしろ好きである。人間に興味がある。だから自分なりの接客をと考えた。

 以前まで厨房にたっていたので、カウンター越しに客の出入りがわかる。お客さんが入ってきた時一応「いらっしゃいませ」という、しかしその声がどうも腹から出なく、低く小さい声なので、お客にとってはホントに自分がきて嬉しいのかと思う。そしてなんと無愛想な人、さらには、怖い人、というイメージができてしまう。しかし僕はおかまいなしにその態度を貫いた。

 と言っても話好きな性格でもある。意外ととことん人と付き合える。だから、その後は結構和気あいあいな感じが出てきて、僕のイメージがどんどん変わってくるようだ。帰り際には喜んで帰られる、と、勝手に思っている。

 最近の飲食店はマニュアルの接客というものがある。とにかく愛想を振りまくというのもそのひとつだろう、しかしそれは自然体ではないので、どこかでボロが出て、客...

May 7, 2019

 2015年3月小桜60年の創業を記念して、ロイヤルホテルオリオンで記念のパーテイーを催した

それまで、40周年、50周年の際も行ったが、今回はやることを少しためらった。というのは前年の3月に母が亡くなり、その一周忌もあるし、それよりもあの難儀さを思い出し気力が失せていた

 しかし、やらないわけにはいかない、と自身で奮起を促した。

 やることが決まればことは早い、日程、会場、内容、参加者へのアプローチ等、前二回のノウハウが生きてくる。そんな折、長男の亮がSNSで告知するから、何かコピーを考えてくれと言われた。が、さして考えることもなく、とっさに出てきてのが以下の一文である。

【 酒場というものは「出会いと別れ」のくり返し

   いうならば、「恋愛と失恋」のくり返し

  そのくり返しを、数十年も続ければ、身も心もボロボロになります。

   が、わが小桜は、それを60年間耐え抜いてきましした。

  そして、これからもあえて、この「恋愛と失恋」を楽しもうと思いました。 】

そのスタートに皆様の応援の声を聞きたく、新生「小桜」の集いを開くことになりました。

どうか、多くの皆様のご声援をよろしくお願い申し上げます。 

 これで案内を行なった。咄嗟に出た文にしては、なかなかなもんだと自画自賛した記憶がある。気分が良くなった分、準備にも拍車がかかった。まず日程、思い悩んだ挙句、3月15日にした。

 これを毎年の小桜創業の日と定めた。この日は前年亡くなった母の命日にあたり、そして創業者の父の誕生日でもある。父が築き、母が育てた、小桜の創業の日としてもってこいだ、とこれも自画自賛。

 ここまで決まれば、ホテルとの調整やら色々とやることが満載だ、しかし今回は頼もしいスタッフもできた。子供達だ、前回はまだ学生の身、今回美華子が幕開けをするので、まずその練習を開始した。亮たちは歓迎ボード等を作成した。司会はいつものラジオ沖縄の屋良悦子にお願いした。定番のジャズも屋良文雄亡きあとを継いだアーキーにお願いした。沖縄色をと、エイサーを,徳田安臣率いる松島青年会に、民謡は,山内航の奥さん率いる琉球バスガイドのグループに、と,そしてこれも恒例の引き出物の泡盛は,新里酒造の新里修一氏に委託、ラベルのデザインを仲井真家の子供二人に頼んだ

 こうして内容は着々と進み、あとは参加者を募るのみ、同級生の光文堂の社長、外間くんにお願いした...

May 4, 2019

 “顔立ち”と“顔つき”は異なるもの、と言ったのは僕の好きなエッセイスト、島地勝彦さんの書いたエッセイ集、「バーカウンターは人生の勉強机である」という、いかにも酒好きな人間にはそそられる書名の中の一文だ、

いわく、“顔立ち”は親からもらった変えられないもの、良くも悪くも文句は言えない

“顔つき”は、本人の努力如何でいかようにも変えられる。自己の経験や、読書,そして何よりも出会い。友人や恋人、社会人になっての上司、同僚らの付き合いが人生の決め手になり、共に”顔つき”が変わっていく。成程と思う。

もっと早くこういう言葉に出会っていたら少々”顔つき”も良くなっていたのではと思うが、遅かった。確かに“顔たち”におぼれ“顔つき”が伴わないイケメン、美女が多く見られる。外観を磨くのに一生懸命になり、内面の磨きをおろそかにする。

たまに会う同年生でも昔の若かりし頃の姿が見事に変わっている人がいる。あんなにハンサムで頭もよく、運動神経も抜群で、女子に大もての男がどうしたらここまでさえない男になるのか、又は全男子校生の羨望の的だった、あの女性が・・・とか、見るも無残といえばいいすぎだが、余りにも良いときとの差が大きいのでついついそう思ってしまう   逆に見事に大変身をとげた男女もいる。

あのさえない風貌の彼が、今や堂々と世間と渡り合えていたり、何処にいるのかもわからなかった女子が何十年たって同窓会の真ん中にいる存在になったりと、“顔たち”におぼれた組と“顔つき”を選んだ組に分かれたように思われる。人生はこれだから面白い。

 

 別に始めからこういう自覚では誰も生きていないだろうからどこかで内面の変革が起こったのだろう、人生必ずどこかで分岐点があらわれる。そのときの判断、決断でその後の人生が大きく変わる。

そのとき誰と出会い、どういった本に出会ったのか、そしてそのときの自身の心身の状態はどうであったか、いい判断ができるような鋭さを持っていたのか、等でその後の“顔つき”がどんどん変わっていくのではないかと思う。

 

 いい“顔つき”の人の条件は、シンプルにいって、この人に会いたい、この人と話したい、この人といると楽しい、と誰にでも思わせる人。と思っている。

 こういう人間はもって生まれたタイプと、その人生の過程で築き上げた人のタイプがある。真摯に正直にいき、そして常に謙虚に努力を惜しまぬ人は見ていて清清しい。...

May 4, 2019

 「やって見せ、言って聞かせて、させて見せ、褒めてやらねば、人は動かじ。」

とは、第二次世界大戦の連合艦隊の司令長官、山本五十六の有名な言葉だ。これを人材育成の場で使われることは多いようである。これの後にさらにこうも言われている。

 「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず

 やってる姿を、感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」

 けだし名言である。シンプルにして、的確。これを子供ができ、その子育てから、家庭教育のあり方に当てはめてみるとどうなるか、まず、世の中の親の大半は自分の子は世界で一番可愛く、頭がいいだろうと考える。それはいい、思うのは勝手だ、

 そこから、子育てに余分な力が入る。まず口を出す。やって見せ、はない、言って聞かせて、もなく、いいっぱなしになる、その後、私の言ってることが何故わからないの!と怒鳴りになる。

 こういうことわざがある。子は親の背を見て育つ、と現代では全く忘れられたことわざである

やって見せ、とは、まずこの背のことではないかと思う、何も言わずとも、親のやることを範にしてみせる、そして、その意義を口で伝える。それも最大の敬意を持って、そして、それを子供にさせてみる、それが失敗でもいい、あとはやったことを褒めてやるだけ、その後は、ほっといても自分で自分を成長させるようになる。

 子供は生まれてからは、一個の人格を持つ人間である。決して物ではない、だが、この世の出来事には、とんでもなく勘違いをしている親が出る。いわゆる、しつけで、という言い訳だ、しつけの延長が、子供を死にいたしめることが平然な世の中は、異常というしかない

 こどもを産む前に、親の学校に行くべきである。がそれもない

 山本五十六は本当は最後まで、この戦争には反対であったそうである。殺し合いを認めるような人間からはこういう言葉は出ないだろう、耳を傾け、や、感謝や信頼、そして、動く、育つ、実る等の言葉には、人間を最大にリスペクトした精神を持っているゆえに出てくるであろうと思う。

 今だからこそ、これらの言葉を噛み締めると、子供に限らず、対人間の関係をこなすのには、今以上の良好な関係が生まれるのではないだろうか。世知辛い世の中にあって、心の余裕がなかなか取れない現代、自信のなさからか、他人への干渉がすぎ、さらに依存度も増すことで、責任の押し付けが始まり、ますます人間関係が悪化する。

 そ...

April 2, 2019

 

 公害という言葉はすでに死語になったのか、最近とんと聞かなくなった。昭和30年代の日本は経済成長一直線で突き進み、戦争で受けたストレスを一掃するかのごとく国民は猛烈に仕事をした。それを高度成長時代といった。当時の池田勇人総理大臣が給与倍増計画などと打ち出したものだから、なおも拍車がかかり猛烈に働いた。

 そのつけがしばらくして、公害をいう問題を起こした。工業技術では世界でもトップをいく日本は工業生産に力をいれる。どこもかしこも煙突の大きさを競うように何某の大工場が立ち出した。それは日本の発展を期待させる象徴だった。煙突からの煙は空を真っ黒に覆う、排水は川という川に垂れ流し海にまで達する。それでもがむしゃらに働いた。

 じわりじわり人間と自然を破壊にと追い詰めていることを誰も気づかなかった。とにかく金を優先した。企業も仕事人も、その利益共同体の姿を日本株式会社と言わしめた。

 僕はその工業地帯の真ん中で生まれた。阪神工業地帯の尼崎、ここには神戸製鋼、住友重金や久保田鉄工、旭硝子や、家の近くには塩野義製薬があった。当然空は真っ黒の日々、近くを流れる神崎川は日本一汚い川の汚名がついた。これは当たり前のことだったのか、僕は喘息になった。

 その後、家族は公害のない沖縄に住み着いた。いつのまにか僕の喘息は消えていた。喘息ならまだ全然楽な方だった。あれからの日本は一大公害列島になる。いたるところで原因不明の病気が現れた。医学界でもわからず、手がつけられず、被害者は悶え苦しみ死んでいく、という地獄絵が出現したのである。にも関わらず国や企業の責任論は浮上しなかった。

 数人の学者が立ち上がった。その筆頭が、東大で化学専門の助手をしていた宇井純先生である。官僚学者がはびこる東大こそが日本を悪くしていると息巻いて、教授の力があるのに助手の立場で東大解体運動をしていた強者なのである。故に、この公害問題でもその熱血漢ぶりを遺憾なく発揮した。兎にも角にも、市民に公害とは何かを、知らしめるべきだと、公害自主講座を東大内で開いた。ここで初めて、熊本の水俣病、富山のイタイイタイ病等が世間に知れ渡ることになる。

 そうした地道な運動がやがて国を動かし、企業を動かすことになる。国は公害防止法なるものを制定し、企業もやっと重い腰を動かしはじめ、賠償問題にも取り組み出した。その後は公害を引き起こす企業は反社会的なレ...

April 2, 2019

 

 グリーンブックとは映画のタイトル、久々にいい映画を見た。内容は、黒人の高名なピアニストが長期にわたりアメリカ南部を巡り演奏会のツアーを行う、それにともない運転手兼用心棒役を募る。そこにあるバーの用心棒だった。イタリア系の男を雇う、繊細なピアニストとがさつなイタリア男との奇妙な旅が始まる。というもの。

 時は1962年頃だから、まだまだ南部では人種差別激しく、黒人が踏み入れるというのは相当なリスクを強いられる。そこを敢えていくところにこの映画の見所がある。人種差別問題の突破口を開くという主人公の勇気を捉えている。この映画は事実に基づいているという。

 映画では随所に人種差別のあまりにも理不尽な光景が見られる。映画のテーマである、「グリーンブック」というのは、当時の黒人専用の旅のガイドブックという。全米で黒人専用の宿泊所、レストラン等が書かれてあり、そこへ行けば安心、それ以外ではどうなるかわからない

 人間は生まれた時からすでに差別に見舞われている。とはよくいわれる。容姿の差、貧富の差、才能の差、等、多かれ少なかれ差別はある。しかし多くは自分自身の理解と努力で越えられるもの、このようにアメリカでは国の制度ですでに人種差別は無くしているはずなのに、未だに黒人排他の風潮が根強く残ることに大きな違和感を感じる。

 私が住むこの沖縄でも、未だに日本国による差別にあえいでいる現状がある。明治に日本国より強制的にかつての琉球王国が処分され日本に組み込まれた。それは納得のいかない屈辱の処分だった。かつて一国をなしていた琉球は、あらゆる権利、文化、言語、教育等全てが剥奪され明らかに差別を強いられた。沖縄人は土人と言われた。

 それは現代でも続く、辺野古基地でのこと、いつものように反対派と権力側との小競り合いのさ中だった。ある大阪府警の警官が、地元住民に対し、「この土人が!」と発したという。警官は処分された。が、それで済む問題ではないということは明らかだ

 なぜこのような理不尽が近年でも起こるのか、誰の責任かを問う声がない、国の責任者はいつも口を濁らせる。この映画を見て思う。今日本国が沖縄に対して行う扱いは、アメリカでおこる、黒人への人種差別と同じようなものではないかと、根強く残る、日本と沖縄の違い、あらゆる意味でのこの違いが国の強固な政策に歯止めをかけない、アメリカのように、国民がその国民を差...

April 1, 2019

 新元号が今日発表された。それは、”令和” という、れいわと読む。なんでも万葉集から引き出されたようで、いまいちピンとこないが、ま、そのうち慣れることだろう、平成もそうだった。

 

 今回は現天皇がなくなる前に、新天皇に引き継ぐという事態が生じたので、こういう騒ぎが起こった。新天皇は皇太子の浩宮、雅子さんが皇后になる。

 日本国の憲法では、天皇は、日本国及び国民統合の象徴、ということになっている。象徴というのは、形のない抽象的なものを形のある具体的なものにおきかえたシンボル、とある。よくいわれるのが、花は美しさの象徴とか、鳩は平和の象徴(シンボル)である、とかが代表的

 だから、天皇は日本という国及び日本人総体を表し、それを具体的にした存在ということになる。が、実にわかりにくい存在になる。

 こういうことを考える日本人はどれだけいるだろうか、僕の孫が小学生ぐらいになった時、天皇陛下とはどういう人物?と聞かれれば、なんと答えればいいのだろうか

 戦前まで天皇は神だった。戦争に負けてから神から人間になった。人間天皇になった。1945年以降だからそんなに遠くない過去である。それまで天皇は現人神であった。そのことを本当に日本国民は信じていたのだろうか、この戦争は天皇の名の元で行った。それは神の声だから逆らうわけにはいかない、だから、皆が天皇陛下、万歳!といって死んでいった。といわれるが・・・

 長い間、天皇とその戦争責任についての議論が行われていた。ここ沖縄では昔より天皇制については馴染みがない、そんなところに何故あれだけの犠牲を強いることができたのか、逆に天皇制に馴染みがない地域だからこうなったんだ、とも取れる。沖縄の地から天皇制を考えると面白いかもしれない、と言ったら不謹慎か。

 初めての天皇が神武天皇、アマテラスオオミノカミの子孫だから神代からきた神であるはずが歴史ではここから人間になっている。ここから天皇家は人代になる。だからここからの天皇の立場は神と人間の間をとりもつということになる。これまでの天皇の役目は全ての国民の安寧を神に託すこと、それを神事という形で行うことが天皇の役目だとある。

 天皇が政治に首を出すということはこれまでなかった。それが昭和になり、国に異常な事態がはしり、空気が一変した。日本国民の多くが大勘違いをしてしまい、いや、無理やりさせられてしまい、考えると実にバカ...

March 15, 2019

 

 うえすぎようざんと読む、この人物のことを知っている日本人は果たしてどれだけいるだろうか。僕が最初に目にしたのは、昔、ある新聞のコラムにのった、「上杉鷹山の経営学」という本の紹介だった。興味を持ったので、すぐに読み始めた。その初っ端に書かれていたのが、アメリカ大統領のジョン・F・ケネディに日本人記者がインタビューで、「あなたが一番尊敬する日本人は誰ですか?」の問いに、ケネディは即座に、「上杉鷹山」と答えたということからの始まりだった。

 それから読み進めて行くと実に面白いことがわかった。その日本人記者は、上杉鷹山のことを知らなかったようだ、なぜに日本人が知らないのに、ケネディが知っていたのか、それは、明治時代の代表的な作家に、内村鑑三がいる。その著「代表的日本人」をケネディは読んでいたのである。キリスト教信者である内村鑑三は、日本を代表する歴史上の人物5人を選び、それを各国の言語で世界中に紹介したのである。当初英語で書かれていたものを、和訳にされたものが、いま手元にある「代表的日本人」である。

 5人の人物とは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人、である。実は、この本、昔に読み終わっていたものであることがわかった。それをすっかり忘れていて、「上杉鷹山の経営学」を読み、再度の購入になった。いま改めて読むと、忘れていた感動が蘇ってきた。

 なるほど、ケネディが尊敬する日本人としたのが頷ける。それは同じ政治家としての精神を学んだのだろう、と

 上杉鷹山は17歳の若さで上杉家の養子に入り、衰退の一途の山形の米沢藩の藩主になる。当初100万石の大藩が30、15万と下がり、その国の民衆の様子は見るも無残な貧困にあえいでいた。それでも藩のお偉方は大藩の慣習が抜けなく、贅沢三昧で改革のノロシもあげないでいた。

 それを見かねた鷹山は、思い切った改革案を次々と断行していく、17歳の若さゆえ、幾多の困難が待ち受ける。しかし、最後まで貫いた精神が、民への愛であった。その深き愛が徐々に民衆にも、藩士の下から上までにも理解が及び改革は進んでいく。

 有名な話がある、初めて藩の様子を見て、これからどうすればいいのか考えている時、偶然火鉢の中の火が消えかかった。家人が、取り替えましょう、というと、それを制し、消え掛かった火種をじっくりと見た。よしツ!これだ、と気がついた。その火種は消えること...

March 8, 2019

「朝の空を見上げて、今日という一日が、笑顔でいられるように、そっとお願いした。」

という歌詞がある。この歌が好きである。

 NHKの朝の連ドラ、あさが来た、のテーマソング、AKB48が歌っていた。カラオケでもこの歌を歌う、この歳でこういう歌を歌うと意外性を誘う、それが楽しみだ。

 

 朝の空はいい、晴れても曇っても雨でもいい、その一日の始まりを実感するのには、まず朝の空を眺めること、今日も生きているということを感じることができる。その朝の空を眺めていると、思い出すのは、小さい頃から小児喘息で苦しんでいた頃のこと、風邪を引くと必ず発作がでる。それは小さい身にはそれなりの苦しさを味わうことになる。小学何年生だったか、その日も発作が出た。そんな時は、横になって眠れないのである。息苦しいから座って寝るしかない。

 どういう体制で寝るかというと、タンスに寄りかかり座って寝るのであるが、なかなか寝付けるものではない。うとうとしている間に、夜明けが来る。木造の小さい家の雨戸の隙間から朝の光が幾重にも差し込んで来る。それがとってもきれいなのだ。ああ、今日も生きられて、朝を迎えられたんだと実感する。

 何十年経ってもあの頃のことは忘れない、いや忘れてはいけない、一日一日の大切さを思うには・・・、あれから喘息は治り、今は曲がりなりにも健康な生活を送っている。が、これから何が起こるかはわからない、だから、朝の空を眺め、生きていることを確認して、大事な日々を送るようにしている。

 話は変わるが、先日、知人の某夫婦が来た。なんでもご主人の飛行機嫌いを押して、オーストラリアを旅したらしい、僕もかなりの飛行機アレルギーなので、そこのところを真剣に聞いた。寝れないので睡眠薬のようなものを飲んだらしい、夜中の便なのでいつのまにかついたという、そうか、そういう手があったんだ。僕の場合はいつも酒、ワイン一本が精神安定剤になる。

 あ、別にそういう話ではなく、オーストラリアでの人々のライフスタイルを見て氏が感動したことである。毎日、早朝から多くの老人がカフエーで談笑しているという、その光景はまず日本では見られないことで、ある種の衝撃を受けたという。笑顔で話し合う姿には、これまでの人生を謳歌したものや、いろいろあっても、余生を堪能しようと、これまでのことを切り替えたことが窺える人や、その人々の姿は、妙に清々しく見えて幸せな...

March 1, 2019

 那覇牧志の中心に希望ヶ丘公園がある。国際通りのテンブス館の裏手、この60年でこのあたりは見事に一変した。希望ヶ丘とは耳障りがいい、なぜこの名前がつけられたのだろうか、と今でも思う、僕にとっては、絶望ヶ丘公園なのだ

 関西から移り住んで、しばらく小桜で一家四人住んだのち、この希望が丘にある一軒のボロ家に引っ越してきた。当時は公園ではなく、丘の麓の貧民街であった。

 雨が降るとぬかるんだ小さい道を登っていく、畳はない、トイレは外、ハブも周りにいっぱいいたはずだが、ハブに注意の看板なんかはない。そこにどのぐらいいたのかも記憶の彼方になった。5~6歳の幼児だが、希望より絶望を感じたのを覚えている。

 その後、その貧民街は徐々に姿をなくし、公園へと変わっていく、小学生の時にはおそらく僕が住んでいたあたりは広場になり、そこで凧揚げなどができた。周りは高層ビルもなく、那覇を一望できる見晴らしのいい場所になっていた。徐々に絶望から希望へと向かう

 それを感じたのは、小学校の絵の時間で、その丘からの写生会があった時、他の生徒は大半が西側の、今の平和通り方面に向かって描き始めたのだが、僕は反対側の桜坂の飲み屋街を書いた。

 ここに住んでいた頃、丘から見る桜坂の飲み屋街のネオンが、それは美しく感じられ、貧民街から見ると、その場所が別天地で夢の国に見えたのだろう。それを書こうと思ったかもしれない、しかし、昼はネオンはない、よく見ると、皆トタン屋根にハリボテの派手な表装を施した店ばかりだった、だけどもがっかりはしなかった。そこにはこれからの時代に希望をもたらすような活気が感じられた。

 小さい頃、店のお客さんによく桜坂のクラブへ連れて行ってもらった。その時の写真がある。今では大事件だ、数歳の子がホステスの膝の上だ、ステージにはフルバンドのジャズメンが、その前のフロアーではペチコートを着たホステスたちがお客さんと踊り狂っている。

 この状況も、まさに夢の国だった。

 その、だったが、その後、音を立ててくづれていく、開発の余波がおとづれ、街は変わりだした。数百件あった桜坂の繁華街も、道路建設のため立ち退きを余儀なくされた。

 戦後できた繁華街はどこも活気に満ちていた。それはそれは元気なウチナーイナグが疲れはてていたイキガに元気を与えていた。が、あまりにも理不尽な立ち退き、やっと立てた自分の城を手放すことになった...

February 22, 2019

 次男が小学生の頃、僕にこう聞いた。「お父さん、コーヒーミルに砂糖を入れたら、わたあめにならない?」と、一瞬どう返事していいものかとまどった、が、面白い考えだね、とだけ返した。我が家では、毎朝コーヒー豆を電動ミルで挽いて、コーヒーを飲む習慣がある。無論夫婦だけ、それを見ての発想だろう、その後、こういった、「面白い、試してみようか、」と

 

 ことは始まった。

コーヒーミルにザラメを入れ、電源を入れた。いっこうにわたあめにはならなかった。なぜか?次にとった行動は早かった。長男も参加しての「わたあめ作り」の本格的な実験が始まった。その当時、初めてパソコンを購入して、インターネットへの接続もなんとか完了していた。今思うと実にいいタイミングだった。

 まず、インターネットで「綿菓子作り」という項目で検索をしてみた。電話回線での接続しかない時代なので、遅いのなんて、画像が上の方からゆっくり降り始める、それが何回も繰り返されてイライラしながらも、やっと「綿菓子作り」の概要が掴めた。

 要は砂糖に熱を与え、結晶化したところを拾い集めるという原理を知った。実験道具としてまず、缶ビールの空き缶、これはいくらでもある。次にモーターと電池、その頃、男の子が夢中になっていたのが、ミニ四駆という車のおもちゃ、モーターと電池はつきものだ、これも揃った。

 そして、肝心なのが火元、以前サイホンでコーヒーを飲んでいたことを思い出し、押入れのアルコールランプを引っ張り出した。

 ここからいよいよ実験が始まる。缶ビールの底に慎重に穴を開ける。真ん中に開けないと回転にブレが生じる。これは何回もくりかえした(おかげでビールがいっぱい飲めた。)、それができたら、缶にザラメを入れ、底を温めながらモーターで回転を加える。するとザラメがわた状になって出てくる。そこを割り箸ですくい取る。ってな具合でわたあめはできる。

 簡単じゃないかと、3人は完成したイメージだけで満足していた。が、とんでもなく難しいことだということを知った。何度も試みた、家中失敗のザラメが飛び散り、あっちこっちムチャムチャの状態で、家中の反感をかった。しかし3人は諦めなかった。

 ある日曜日、皆で公園に遊びに行った時、綿菓子屋さんを見つけた。3人はすぐさまそこに

駆けつけた。「いらっしゃい!」というおじさんを無視して、わたあめ機の構造をくまなく観察した。わたあめは買...

February 13, 2019

 今やっているNHK朝の連続ドラマのテーマである。我々夫婦の日課の一つがこれを見ること

振り返ると、2009年だからちょうど10年前から、まず、「ウエルカメ」「ゲゲゲの女房」「てっぱん」「おひさま」「カーネーション」「梅ちゃん先生」「純と愛」「あまちゃん」「ごちそうさん」「花子とアン」「マッサン」「まれ」「あさが来た」「とと姉ちゃん」「べっぴんさん」「ひよっこ」「わろてんか」「半分、青い」、についでの、まんぷくになる。これまで19作を全て見たことになる。

 昔から、老後の楽しみは、この連続ドラマを観ることになるよ、と言われてきた、確かに僕の父母もあの大ヒット作、「おしん」を、その時だけは仲良く見ていた記憶がある。 

 いよいよそういう年になったのかとしみじみ思う今日この頃だが、今日のテーマはそうではない、このまんぷくの話だ、

 かいつまんで内容をいうと、主人公はカップヌードルやチキンラーメンを発明した、安藤百福氏の自伝、この画期的な食品を生み出した人間の成功物語だ。このドラマは始まる前から密かに期待していた。というのは、60年前、僕が6歳だった時チキンラーメンは誕生した。その後しばらくして兵庫の親戚から送られて来た小包の中身がこのチキンラーメンだったのである。沖縄でこのチキンラーメンを食べたのは僕が初めてである。という確信がある。

 小学校低学年の僕が一口食べて驚いた。こんな美味しいものがこの世にあるものだろうか、という感動を、10歳にも満たない僕がえた。今日、放映されたものは、長い試作の果てに即席ラーメンが完成し、それを試食した全員が、うまい、といった。それはまさにその当時の僕の姿だった。こういうエピソードにも加え、この番組に興味を感じたのは、安藤百福の着眼である。今、スーパーやコンビニに行けば当たり前のように即席麺は棚を幾重にも覆っている。しかし、麺に味付けされ、お湯を注げばラーメンになるというのは日清の製品だけである。

 あの時、ドラマにあるような幾多の困難を乗り越えなければ、この商品はこの世には出ていない。今日、世界中に隆盛を誇るカップ麺の世界は、ここからスタートした。

 この世に、今現存しているのは全てのものは、それを思いつき、作り出した人間が、最後まで諦めないでやり通したものだけが残った。と言っても過言ではない気がする。あの時、もうだめだ、とか、これは無理だ、とか、絶...

February 7, 2019

 小さい頃から母親に、「また余計なことして!」とよく怒られた。余計なこととは、差し出がましいこと、別にやらなくてもいいこと、善かれてと思ってやってしまったものが、実は全くそうでは無かった。ということで、ほとんど良い意味では捉えられてないのである。おまけに、「余計なことはやめなさい」というビジネス本まで出ている。

 確かに、余計なことは、あくまでも余計なことだから、無駄なこと、これを除けばもっといいことがスムーズにことは運ぶし、余計な一言を言って、大きな痛手を食わなくても済むだろう

 余計なことばかりしていた僕はあまり効率よく生きてないかもしれない

しかし、ここではたと考えた。余計なことは本当に悪いことなのか、別に自己弁護するわけではないが、視点を変えれば余計なことも、生かされるのではないかと考えた。稼業である飲食店で考えてみた。飲食店は飲み物や食べ物をお客様に提供して、その対価をいただく、いわゆる等価交換というものだが、この価値を当たり前のごとく交換していての満足度はどんなものかを考えたことがあった。当たり前のことは当たり前だから、みんな当然のごとく受け入れる。だからここで余計なことはしないし、余計なことは考えない、余計なことも言わない

 

 しかし、反骨グセのある僕はここで余計なことを考える。やらなくてもいいことをふんだんに行う。余計なことを積極的に行うことは難儀が伴う、さらに余計なことはリスクを伴う、失敗すれば、「また余計なことをして!」と非難の的だ

 当たり前の商売をやっていれば多少うまくいくはずであるが、それでは面白くない。だからちょっと考えた。それもありきたりのものではなく、面白いと思うものをだ。

 まず、こう考えた。お客が得る価値=店が提供する価値、これは等価交換

これをこうする、お客が得る価値>店が提供する価値、これは不等価交換になる。これだとお客が思っている以上の満足が得られる。これはお客に対して余計なことをすること、少々プラスになる価値をつけること、それは満足のある余計な価値でなくてはならない。

 そこでやったことは

 ①お客さんの顔を一人一人ポラロイドで撮影した。その後は数人の撮影になったが、その数4千枚以上になった。ポラのフイルムは一枚200円になる。計80万以上の余計なことをした。(酔顔参照)、②全国のお客さんに、お国自慢を地図に書いてもらったら手作りのガイドブ...

January 25, 2019

 

 先日から、改めて、大浜 聡さんの「国際通り物語」を読んでいる。氏の取材力には読むほどに驚かされる。誰と誰がいつ、どの時間で、どういう会話があったのか、そしてどうなったのか、まではいい、普通はそこで終わる。しかし、それが本当であったのか、当時の文献、資料をとことん検証していく、その徹底した取材精神には恐れ入る。

 もう一人似たようなかたがいる。共同通信の論説委員で、現在二度目の宮崎支局長をしている、上野敏彦さんだ。上野さんの取材力もすごい、少しの話でも、すぐさま図書館に向かい検証する。この二人に共通点がある。フエイスブックでの書き込みが尋常ではない、一日に何度となく書かれ、写真もふんだんに載せられる。そこに真のジャーナリスト精神がみえる気がする。

 

 「国際通り物語」の中で引用された本で気になるものが二冊あった。一冊目は船越義彰氏の「なはわらべ行状記」、二冊目は牧港篤三氏の「幻想の街・那覇」である。以前からどうしても読みたかったが、両方とも廃版になっていたので、諦めかけていた。

 先日、たまたまジュンク堂へ寄ると、ロビーで、新春古書展という企画が開かれいた。もしかすると、と、この二冊を探してみた。沖縄関係の書が並ぶ棚を、注意深く目を皿にして探した。 程なく、「なはわらべ・・・」は見つけた。次に「幻想・・」、これは見当たらないので、古書店の主人に聞いてみた。本のイメージがあるので探してみましょう。と言って、探し始めた。が、やはり見つからなかった。

 古書店の主人というのは本が本当に好きなようだ、その店主は次に、近くにある古書店に電話して在庫があるかを確認してくれた。僕がこの「幻想・・」をよほど手に入れたいのだ思ってくれたのだろう、その動きを嬉しく眺めていた。電話の先は近くのうららという、沖縄一小さな本屋というので有名な店。そこなら知ってるから直接行ってみますといって、うららに向かった。

 うららは以前から気になっていた店だった。ついてもすぐには事情を明かさず店内を見回した。といっても棚が四つくらい、本好きな人間が、家の古い蔵書の書棚をそのまま持ってきたような古本屋だ。探しても見当たらないので店主に聞くことにした。するとすかさず、いまジュンク堂から、お探しの本があったと連絡がありました、という。すぐジュンク堂へ戻った、先ほどの店主が大事に取り置きされ、えらく恐縮されていた。

 こ...

January 22, 2019

 

 4年前、同級生が小さい飲み屋を開いた。今僕らは66歳だから、62歳の時の英断だ、奥さんにも黙って、勝手に開いた。そこにいけば誰か同級生がいる。とってもありがたい存在だ。

 その前にも同級生がやっていた店があった。そこは5年前、開店して30年を前に閉店した。開店当初はものすごく繁盛していた。もう一軒繁盛していた同級生の店もあった。がそこも閉じた。

 同級生の店はなかなか儲からない、なぜか、それは同級生が来るから、同級生は客にはならない、あくまで同級生なのだ、同級生の店には同級生しかこない、だから儲からない、同級生のサロンになる。皆が昔の学生時代の話で盛り上がる。それも、何度行っても同じ話で、だから儲からない。それをわかっているのわからないのか、店を出す。

 だから、とってもありがたい、先日も久々に行った。新年の挨拶を同級生にやるには手っ取り早くできる。この歳になると、生存を証明しなければいけない、俺はまだ生きてるぞーっと!

 話はこの年にありがちな話で盛り上がる。誰それの噂だ。誰は脊柱狭窄症、誰は脳梗塞、誰はなになにガン、誰は生活保護に入った。とかとか、隣の彼も目がやられ、自分で酒を作れず、肴を摂る手もおぼつかず、と言う程だった。いつのまにか65歳の二度目の定年をむかえて、それぞれの人生が大きく変化する。

 でも、やはり同級生の集いは楽しい。これまで多くの鎧を被せながら駆け抜けた社会での事柄を、全て忘れさせるし、そういうことを払拭させる力を同級生は持っている。一瞬にして過去に戻らせてくれる。現在進行形ではなく過去進行形になる。やはり気になるのは当時の女子のこと、この話は永遠に続くのでは、と思うぐらい、懲りない男の子たちがいる。

 この歳になって、酒場をやる覚悟は相当なものだと感服する。それは長年自分が経験したからだ、飲み屋というのは難しい、それはあくまでも人間関係の最たる環境に首をつっこむということだ、よくいう、会社を辞めた理由はと、それは人間関係がうまく行かなかったからです。と、ほとんどそれではないかと思うぐらいだ、それほど人間と人間の関係がうまくいくことが難しいことなのだ、それをあえて、この年でそこに入っていくのは相当な覚悟が必要だと思っている。

 この人間関係の難しさを乗り越える方法がある。それは、笑うしかないと思うのである。人間生れて来たら、死ぬしかない、今東光おっしゃ...

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