中山 孝一

2020年5月22日3 分

牧志界隈を歩く その十

最終更新: 2020年5月23日

 一銀通りを正面にすると、左角にあるのが海邦銀行、右角にある二階建てのビルは「島袋ビル」という名であることが調べてわかった。よく見るとわかるが、どうも作りが日本的ではない、アメリカ統治下の時代の匂いのするビルだ。上が事務所風で下が5店舗ほど連なっている。

 一番左角に手作りジュアリーの店、その隣が「三宝堂」、あとは土産品店があるが、この「三宝堂」に注目していただきたい、看板には「古銭と切手」と書かれている昔からある店だ

 普通こういう類の店は街のはずれにひっそりありそうだが、この不動の位置は絶対に譲らないという頑固さが見える。確かにこのビルではここだけが変わらない。


 

 古銭というと「和同開珎」とかの日本の古銭を思い浮かぶが、沖縄は「お金」の変遷では世界に類を見ないという時代を経ている。戦後すぐの貨幣決まらずの時から、軍票といってB円というものになり、それが米ドルになり、最終的には日本円に変わる。27年の間に目まぐるしく「お金」が変わる。ある意味実験されているような島だ。その27年間の「お金」の歴史がこの店に行くとわかります。勉強になりますよ。

 もう一つの「切手」。これも沖縄ならではの面白さがあり、たかが切手ではないのです。「沖縄」は、日本復帰する前は「琉球」という言い方が主で、「琉球政府」という独自の行政機関があった。だから今でも「琉球銀行」に「沖縄銀行」、「琉球新報」に「沖縄タイムス」、「琉球大学」に「沖縄大学」etc、という呼び方があり、まるで「琉球」と「沖縄」が対抗しているように思える。しかし、切手は「琉球切手」という、ここだけにしかない特殊な切手が発行されていて、対抗するのはあくまでも「日本切手」であった。


 

 ここからは、私的な話になる。何を隠そう、僕は趣味が「切手収集」であった。小学生の時は切手ブックを何冊ももち、扱いもピンセットを使い、それはもう大事に扱い、その保存に命をかけ、将来の億万長者を夢見ていた。収集する切手は主に「琉球切手」

 なぜ、「琉球切手」に億万長者の夢を見させるほどの価値があるのか、それは「琉球切手」の文字は日本語表示で、価格はドル、セント(米価)で表示されているのだ。これだけで沖縄の特殊性がわかる。これはもう貴重なものであることは間違いない、買い集めないと、と日本に帰る前には(日本復帰のこと)、郵便局に並び、シートで買いまくった。


 

 その後、その熱はすっかり薄れ、夢より現実へと転換していく。しかし、その夢が再び蘇った。6年前母親が他界し、実家から当時の切手ブックが出てきたのだ。保存は申し分ない。果たしてどれほどの価値になっているのか、期待に胸弾ませながら、冷静に一枚一枚を念入りにネットで調べた。そこでわかったこと。その後の世界的なるブームの去りで、全てがほぼ価値なしになってたこと。世の中そんなに甘くない。

 そういう「琉球切手」の貴重な歴史も「三宝堂」へ行けばわかる。ということを長々説明した次第です。<夢の果て>が、私どもにも一部残っておりますので一報いただければお見せできます。

 さて、島袋ビルに戻り、現在角にある手作りジュアリーの店の前身は「一銀堂」という土産品店だった。経営していたのは僕と同じ年の「荒垣清郎」。彼は沖縄が復帰する前の米ドル時代から土産物一筋でこれまでやってきた。現在病気療養中だが、元気になれば、沖縄の土産物の変遷を振り返る。「沖縄のおみやげ物史」のようなものが聞けたらいいな、と今から彼の一早い回復を期待している。


 

今回はカタツムリの速度で歩いたら、頭がいろんな方向に動き出した。次回は真面目に歩いて、しっかり牧志界隈を伝えていく所存です。

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