中山 孝一

2020年7月30日3 分

ぼくと泡盛 7

 前回お伝えした、「仲村征幸」さんについてお話ししたいと思います。氏は5年前に肝臓癌で亡くなられました。1969年の復帰前、泡盛が全く売れない時代に「醸界飲料新聞」という業界紙を立ち上げました。しかし、名を変えれば明らかに「泡盛新聞」となるはずです、いや、本人もそうしたかったはずです。ところが時世はアメリカ世(ゆ~)、県民はこぞって泡盛を忘れ、日々ウイスキーに酔いしれる時代です。そんな時に堂々と泡盛を名乗れる新聞を作ってもどうかと、悩んだ挙句の「醸界飲料新聞」だったと思います。周りからは散々「こんな時代に、気は確かか!」と罵られたようでした。


 

 現在、どんな店も泡盛のメニューのない店はなくなった。これが普通の世の中になった。しかし、以前はこれが普通ではなかった。こうなるまでの道程は幾人の人間と、泡盛業界のとんでもない努力によってできたことだと、知る人は少ない。

 その幾人の人間の一人が「仲村征幸」さんだ。現在の泡盛隆盛の第一の功労者だと思っているが、あまりの頑固さが災いしてか、どこか人を寄せ付けないところがある。それがその功績に反して世に知れ渡ることなく、2015年にこの世を去ることになった。


 

 仲村さんの功績を並べるときりがないが、まず、初の泡盛専門の業界紙を発行して、泡盛業界の足並みを揃え、技術的によりよい品質の泡盛を作るための情報の交換の場を作った。泡盛を県内外に展開すべく「泡盛同好会」なるものを発足させた。さらに、業界の看板をと「泡盛の女王」誕生も仲村さんの発案である。その他、多くのアイデアを成功させ、間違いなく泡盛の認知度を高めてきた。

 このあたりの、仲村さんの活躍は、「泡盛新聞」というサイトの中の「泡盛よもやま話」に詳しく書かれています。ちなみに、この「泡盛よもやま話」というのは、ラジオ沖縄で20年近く続いたトーク番組の番組名でした。聞き役の”屋良悦子”さんから聞くところによると、ほぼ20年もやっているのに同じ話を聞いたことがない、という。これには一番驚きで、毎回新鮮な話ばかりだった、と楽しそうに回想していた。


 

 こういうことがあった、当時、泡盛の古酒表示に疑問を抱いていたので、自分なりに検証してみようと思った。市中に出回る古酒の年数別とその価格を比較してみた。結果、かなりのばらつきがあるのがわかった。それも当時業界あげて古酒表示の自主規制も始めていた頃だった。それは、古酒3年、5年、10年、15年のものがどの程度の仕次ぎで行われているか、そのブレンド率を表示し、更に適正価格であるかということだったが、一部のメーカー以外はほとんどなされていなかったことが判明した。

 そのデータを見せながら仲村さんと熱く議論した。仲村さんも早くからこの件の問題を注視していた。その後の泡盛業界はこの問題と真剣に向かい、現在の100%古酒に至った。


 

 仲村さんのことは、泡盛を口にするたびにいろいろなことが思い出されます。

仲村さんが亡くなられた、平成27年1月9日の翌日の10日に「仲村征幸さんとの思い出」として書かせていただきましたが、このブログにもアップしていたことを最近気づきました。再度読み返し、仲村さんの泡盛にかける情熱が思い起こされてきました。天国の仲村さん!今日も一杯やりましょうか!

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