中山 孝一

2020年7月28日3 分

ぼくと泡盛 6

 1972年の復帰以前はウイスキー全盛の時代。小桜でも泡盛は悲しそうにカウンターの裏でひっそりと出番を待っていました。その時の銘柄は首里の「瑞泉」と「瑞穂」この2本だけ。この2銘柄の泡盛だけだった。と記憶している。しかし、不思議に思ったのが、泡盛の工場は那覇のいたるところにあったことも覚えている。なぜにこの二社だけの泡盛しかなかったのか

 この二社以外はどこも小さい工場で、那覇の住宅街に点在していた。その泡盛工場から発する匂いはとにかくすごく、その匂いで泡盛工場だとすぐにわかった。シー汁の酸味とその腐敗臭や出来の悪かった(であろう)アルコールの匂いがあいまって、なんともいえない強烈な匂いを周辺に撒き散らしていた。当時は下水道施設も不十分だったところへ、様々な残留液を下水に垂れ流すものだから、住民はたまったものではない。まさに公害だった。とは、その当時、泡盛工場のすぐ隣に住んでいた方のお話でありました。数々の悪口雑言、代わりましてお詫び申し上げます。


 

 話を戻します。なぜ、いたるところに泡盛工場はあるのに、銘柄は「瑞泉」と「瑞穂」しかないのかの疑問。後に、これは日本酒の桶売り・桶買いというシステムに習って行われているらしいことがわかった。その昔は量り売りでしか出回ってなかった泡盛が、力をつけた首里の二強が自社ブランドを作ったが、需要が間に合わず、小さな酒蔵から中身の酒だけを買い、それを自社の酒ととブレンドして「瑞泉」「瑞穂」という銘柄が生まれた。だから、この二強に提供する小さな酒蔵はどちらかに分かれることになる。瑞泉派か瑞穂派という派閥ができるのは必然のことだった。この二強のどちらがより多く市場に出回るかは、小さな酒蔵の品質にもかかっている。だから、いい酒質を求めて、小さな酒蔵がしのぎを削ることになる。


 

 その後、大手の二強は工場を増設して自社だけで生産が間に合うようになる。と、徐々に桶売り・桶買いのシステムは消えていった。残された酒蔵はそれぞれが我が道を探すことになる。しかし、それまでの努力が1972年の復帰以降にようやく花が開くことになる。復帰後は国の酒類担当の専門官が管轄に入る。その指導で酒質が一段と向上した。小さな酒蔵がそれぞれのブランドを立ち上げるようになった。

 今年は戦後75年になる。泡盛の全てを失ったところから立ち上がりここまでの軌跡はまさに奇跡といえる。このところの泡盛業界の現状は必ずしも順調とはいえないだろう、が、今一度原点を振り返ることで、この状況から脱却できるヒントがあると思う。泡盛600年の歴史の中ではこの75年はわずかなものだ


 

 ところで、1955年ごろ竜宮通りに、毎日のようにリヤカーに泡盛が入った桶を積み、売り込みに来ていたおじさんがいたそうだ。桶の中身は首里寒川にあった石川酒造の「玉友」という銘柄だった。と父は言っていた。「瑞泉」「瑞穂」より先にゲリラ的市場開拓をしていたのだ。現在西原にある石川酒造には当時の馬桶が資料館に展示されている。

 今の世の中で、こういう酒の売り方をすると”粋”だと思うんだがな~、どこか出てこないかな~~。


 

 今回の内容は、「醸界飲料新聞」の仲村征幸著「泡盛よもやま話」を参考にさせていただきました。仲村さんの話もこれからゆっくりお伝えしたいと思っております。

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