中山 孝一

2020年7月6日3 分

ぼくと泡盛 2

 泡盛のボトルといえば、茶色か透明な一升瓶か、裏に「沖縄県酒造組合連合会」と刻印された二合瓶か三合瓶の透明な回収可能なリサイクルボトルでした。まず市場で消費された泡盛の空き瓶を回収する業者がいます。その空き瓶を蔵元が買い取ります。それが洗浄されて、また泡盛を詰めて市場に出回ります。理想的な環境サイクルがありました。

 それがある年代から大きく変わっていきます。それぞれの蔵元がオリジナルのボトルを出しだしたのです。それぞれがおしゃれさを競うが如く 泡盛界らしからぬ様相が現れたのでした。記憶にあるところでは、1980年前後と思いますが、若者の消費を掴むべき行動に出だしたのが、久米島の久米仙ではなく、那覇の久米仙酒造が出した「久米仙グリーンボトル」というのが、衝撃的なデビューを果たしたという・・・のが始めではなかったでしょうか。その時の月間の売り上げが未だに破られてないとかを耳にしたことがあります。それほど、それまでの三合瓶のイメージが、消費者に与えたイメージがどうであったのかを、全蔵元が考えさせられた、ある意味一つの事件だったのではと思うぐらいです。


 

 それからの各蔵元は頑張り出しました、業界の変革時期といっていいでしょう。泡盛の酒質向上をではなく、ひたすら外観の向上に目標を変えました。それからというもの市場は百花騒乱、様々なデザインのボトルが酒店から国際通りのお土産品店までを占領しました。

 記憶の中では、首里の大御所、瑞泉から「翔」というマイルドボトル900ml25度の商品が出た時です。薄いグリーンのおしゃれなボトルです。我が小桜に瑞泉の佐久本社長がトップセールスとして来られました。早速2ケース注文して棚に並べました。当時ウイスキーボトルが並ぶことはあっても泡盛が並ぶ頃はほぼなかったので、佐久本社長はご満悦でした。


 

 その翌日でした。瑞泉に対抗してかどうかはわかりませんが、首里の片方の大御所、瑞穂も「ロックボーイ」という商品を出していました。泡盛らしからぬ銘柄です。あとで聞いた話ではアメリカへの輸出を計画していた商品とか、その「ロックボーイ」を引っさげて、今度は瑞穂の玉那覇社長がトップセールスで来られました。プロレスラーのような風体の社長がぐるり店内を見回して一言、「翔はあって、うちのは一本もないね」と、睨みました。ぼくは慌てふためいてすぐさま酒屋に電話しました。「急いでロックボーイ3ケース持ってきて!」と、この日は「翔」を収め「ロックボーイ」だけ並べました、強面の玉那覇社長もやっと笑顔を見せました。その後、棚からウイスキーが全てなくなり、「翔」と「ロックボーイ」だけが並びました。それはそれで壮観だったのです。一時期だけ。


 

 このようにして、その後、泡盛業界は、表面上活況を浴び出してきました。若者がいくコンパ、居酒屋、デイスコ等でおしゃれな泡盛のボトルが目につくようになりました。が、果たしてその中身、泡盛自体の味に関してどのような会話があったのだろうか、気になるところです。

 当時の「久米仙グリーンボトル」「翔」「ロックボーイ」が40年後の現在どうなっているのか、「久米仙グリーンボトル」は現在も販売されています。ロングセラーです。泡盛の形容詞的存在とまでいう、酒屋もありました。「翔」は当時の900ml25度ではなく、形を変えて様々な商品となって販売されています。「ロックボーイ」はアメリカへ向けて大量に作られたが思うように現地で伸ばせず大量の在庫を抱えます。が、ここは泡盛の強み、古ければ古いほど価値が高まるという体質をうまく生かし、現在「ビンテージ泡盛」という聞きなれない商品として、720ml30度が6000円~13000円以上の高値がついていました。

 あの時、咄嗟に注文した「ロックボーイ」3ケース、売らずにおいとけばよかった!

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