中山 孝一

2020年9月30日3 分

「自助・共助・公助」について考えた

 コロナ騒動の渦中にいつのまにか総理大臣が変わった。その総理大臣が政策理念として「自助・共助・公助」というものを掲げた。その意味をネットで調べるといろいろ書かれていた。要は自分のことは自分で責任を持つこと、それができなければ家族や親族、近隣の方々に助けを得る、最後にどうしようもなくなったら国が手助けしよう。という流れでしょうか、ネットで見ると、社会保障の観点からや防災の面でこの言葉の解釈が目立つが、果たして総理大臣はどういう意図でこの言葉を理念に掲げたのだろうか


 

 この「自助」という言葉で思いついたのが、「自助論」という本だった。数年前たまたま本屋で見つけ、一気に読んだ。その後息子やその友人ら若い人にも勧めたがどうも関心はなさそうだった。少し前の人だったらこの言葉は聞いたことがあるはずです。

「天は自ら助くるものを助く」これはサミュエル・スマイルズの著書「Self-Help](自助論)の序文に書かれたものを日本語に訳され長きに渡り語り継がれた言葉です。


 

 これには端的に自助の精神についてこういっている。

「自助の精神が多くの人々の生活に根づくなら、それは活力にあふれた強い国家を築く原動力ともなるだろう。外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間をいつまでも励まし元気づける。(中略)いかにすぐれた制度をこしらえても、それで人間を救えるわけではない。いちばんよいのは何もしないで放っておくことかもしれない。そうすれば、人は自らの力で自己を発展させ、自分の置かれた状況を改善していくだろう。」


 

 小さい頃母親によく言われたことは「自分のことは自分でしなさい!」だった。当時両親は仕事で忙しく子供にかまっていられない、当然自分のことは自分でしなければ誰もやってくれないからそうする、僕らの時代はそうだった。しかし時代が変わり日本人のほとんどが中流意識をもちだした頃から親が子供への干渉が強くなり、自分のことを自分でしなくなる依存性の強い子供が増えた。そうして育った子供たちがやがて大人になると、少々のことでも自分のことはさておき、周りに対する不満を言い出す。その対象は親だったり、兄弟だったり、会社だったり、そして最後はこの国が悪いんだ、となる。これは「自助・共助・公助」に逆行する現象ではないだろうか


 

 この長い期間に日本人の「自助の精神」は失われつつあるような気がする。それをこれから「自助・共助・公助」の必要性を謳ってどれだけの国民から賛同を得られるか、甚だ疑問である。スマイルズはこうも言います。

「立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ劣悪な政治が幅をきかす。国家の価値や力は国の制度ではなく国民の質によって決定されるのである。」

 この国の政治が立派かどうかは意見は分かれるところだが、自分自身が立派かどうかは立ち返ってみれば自ずと見えてくる。この時期だからこそ、自分自身並びにその足元の見直しを図り、何が必要かを問うことが肝心ではないだろうか、国の制度に期待する前に、と「自助論」を読んで感じた次第です。

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