中山 孝一

2020年5月2日3 分

牧志界隈を歩く その一

最終更新: 2020年5月25日

 毎朝日課にしている散歩はもっぱら国際通り、7時ごろから出て日によってコースを変えている。静かな朝の通りは昼も夕も今や一日中同じ光景になった。(コロナの影響で)人がいないので建物の形状がはっきりわかる。この際だからといつもの見慣れたこの街を見直してみようと思った。昔流行った「路上観察学」にならい、「ブラタモリ」にならい、じっくり観察してみようと思いついた。なにせここには60数年住み着いている。わからないところはないだろうとたかをくくって・・・

 ところがところが毎日思わぬな光景に出くわす、これは舐めちゃいかんぞ、と腹をくくった。

まず頭の中を整理して範囲を決めた。ここは牧志(マキシ)という地名、一丁目、二丁目、三丁目とある。その境界線を確かめた。すると不可解なことが二点すぐ見つかった。境界線にある誰もが知る施設「牧志公設市場」が実は隣の松尾という地名だった。だから正確には「松尾公設市場」になる。そして、モノレール牧志駅から見える我が母校「壺屋小学校」の地名は壺屋ではなく牧志であった。よって「牧志小学校」にならなくてはいけないはず、卒業後56年にしてわかった真実だった。

 

 よくよく那覇の地を見るとこういう不可解なところがあちらこちらにある。開南小学校があっても開南という地名はなかったり、神原小学校、神原中学校があっても神原という地名がないとかだ

 だが、観察するには那覇は範囲が広すぎる。そこで思いっきりせばめて”国際通り”を中心にして、牧志界隈を観察することにした。それでも十分面白いところが発見できる。今年は戦後75年にあたる。あの荒れ果てた那覇の街が75年経ってこのように立派になりました。と沖縄を紹介する本や雑誌等には紹介される。

 しかしそれはほんの一部、一歩足を踏み入れいると驚くほど戦前の姿がみえる。それも華やかな”国際通り”のすぐ側に。それほど戦後の那覇の復興が困難を極めたものかがわかる。

 例えばグーグルマップで那覇を上から覗くとあちらこちらに緑が生い茂ったところが見える。一見森のような公園があるんだと思う。緑の少ない那覇でも頑張っているところがあるんだと思ってしまう、そうだといいんだが、実は皆墓地である。古墳群とでもいったらカッコがつく。

 しかしそれらに近づいてもどこに森があるかわからない、どこに墓があるかわからない。そう周りを隙間なくビル、マンションで囲まれている。覆い隠されているのだ、そういう場所を発見するとワクワクする。

 元農連市場(現在農連プラザ)は柱と壁を組み合わせたような、とても建物とはいえないでっかい積み木のようなような物だった。その空間の合間をくぐり抜ける小さな川があった。(今もあるが)その川がいつのまにか姿を隠す。隠された川の上に長い建物が出現する。上から見ると万里の長城の模型のようだ、これは水上店舗という。川の上にたった店舗だから水上店舗。昔から地元では馴染みのある呼び名だが川を覆い隠して作られたものだ。

 このような不思議な空間「牧志」をこれから歩き、見たものを一つひとつ残していきたい。かつて戦後の那覇の都市計画を示唆した早稲田大学の石川教授がいった言葉「都市は人なり」をもじり、「街は人なり」との思いで・・・

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