中山 孝一

2019年3月1日3 分

希望ヶ丘公園

 那覇牧志の中心に希望ヶ丘公園がある。国際通りのテンブス館の裏手、この60年でこのあたりは見事に一変した。希望ヶ丘とは耳障りがいい、なぜこの名前がつけられたのだろうか、と今でも思う、僕にとっては、絶望ヶ丘公園なのだ

 関西から移り住んで、しばらく小桜で一家四人住んだのち、この希望が丘にある一軒のボロ家に引っ越してきた。当時は公園ではなく、丘の麓の貧民街であった。

 雨が降るとぬかるんだ小さい道を登っていく、畳はない、トイレは外、ハブも周りにいっぱいいたはずだが、ハブに注意の看板なんかはない。そこにどのぐらいいたのかも記憶の彼方になった。5~6歳の幼児だが、希望より絶望を感じたのを覚えている。

 その後、その貧民街は徐々に姿をなくし、公園へと変わっていく、小学生の時にはおそらく僕が住んでいたあたりは広場になり、そこで凧揚げなどができた。周りは高層ビルもなく、那覇を一望できる見晴らしのいい場所になっていた。徐々に絶望から希望へと向かう

 それを感じたのは、小学校の絵の時間で、その丘からの写生会があった時、他の生徒は大半が西側の、今の平和通り方面に向かって描き始めたのだが、僕は反対側の桜坂の飲み屋街を書いた。

 ここに住んでいた頃、丘から見る桜坂の飲み屋街のネオンが、それは美しく感じられ、貧民街から見ると、その場所が別天地で夢の国に見えたのだろう。それを書こうと思ったかもしれない、しかし、昼はネオンはない、よく見ると、皆トタン屋根にハリボテの派手な表装を施した店ばかりだった、だけどもがっかりはしなかった。そこにはこれからの時代に希望をもたらすような活気が感じられた。

 小さい頃、店のお客さんによく桜坂のクラブへ連れて行ってもらった。その時の写真がある。今では大事件だ、数歳の子がホステスの膝の上だ、ステージにはフルバンドのジャズメンが、その前のフロアーではペチコートを着たホステスたちがお客さんと踊り狂っている。

 この状況も、まさに夢の国だった。

 その、だったが、その後、音を立ててくづれていく、開発の余波がおとづれ、街は変わりだした。数百件あった桜坂の繁華街も、道路建設のため立ち退きを余儀なくされた。

 戦後できた繁華街はどこも活気に満ちていた。それはそれは元気なウチナーイナグが疲れはてていたイキガに元気を与えていた。が、あまりにも理不尽な立ち退き、やっと立てた自分の城を手放すことになった。その当時、このあたりは桜坂大学とも言われていた、文字通り、この大学を卒業して真の人材になる。とのことか、確かに幾多の成功者はここの出身者だ。

 最近この公園の上に登り、周りを見渡し、しみじみと邂逅する。これまでいた場所がこれだけ変化した。そしてこれからもこの変化はますます加速するだろう。あの日感じた、希望が絶望にそしてまた希望にと変化した胸の内が、また絶望に戻らないことを祈る。

 この丘はこの変化をどう思っているのだろう

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