中山 孝一

2016年9月13日3 分

小桜物語

1955年創業の小桜は今年2015年で60年を迎えた。

創業者は父中山重則、当時42歳、当時父は大阪の船会社の貨物船で機関長の職で東南アジアを行き来していた。たまたま沖縄に寄港したとき、田舎の親戚が営む料理屋を訪ねたときこう言われたそうだ。「この店の帳場をやらないか」と、これが私たち一家の運命を変えた。それからほどなくして「小桜」を開業した。その頃僕と母フミエ、姉加代子は、尼崎杭瀬の長屋で楽しく暮らしていた。あえて楽しくというのは当時昭和30年、戦後10年で皆の暮らしはまだまだゆたかと言うには程遠いものだった、しかし皆きらきらしていたように思えた。3歳の僕はでもそのように感じた。いわゆる運命共同体というのかお互いが助け合い励ましあいながら将来への夢を見ながら逞しく生きていた。それがとても楽しかったのである。今振り返ってもそう思う。心がゆたかであったと思う。

 そんな時にいきなり沖縄から移住の知らせ、沖縄はまだアメリカの統治下だったので簡単には行けない、何度も手続きで神戸港と那覇港を確か浮島丸とか沖縄丸とかの3千トンぐらいの船で行き来した記憶がある。最初に一家が落ち着いた先が小桜の一番奥の3畳間の小上り、カウンターのすぐ横なので酔っ払いの声が丸聞こえ、しまいに僕は泣き出す。そんなときは女給さんらが、泣いたら交番所のおまわりさんが来るよ、と脅かされて泣き止んだそうだ、その後家を転々とした、どの家も小さく、水は井戸を汲み便所は外で隣近所共同といういかにも貧しい生活ぶりだ、しかしここでも尼崎と同じく貧しくとも皆輝いていた。

 そういう時代の中でも小桜は毎日が忙しかったように思う、それは戦後復興のインフラ整備のため本土からの人たちがあふれ、さして繁華街もない那覇では貴重な店の一つだったのである。あの当時は地元の人は外での飲食は贅沢で、もっぱら自宅で家庭料理の代表、チャンプルーとかアメリカ世になったおかげで手に入る缶詰類、ポークランチョンミート、キャンベルのスープシリーズ、コンビーフ、鷲ミルク、等々、とかが溢れかえり沖縄の食文化が一気に変わっていた時だ。外での飲食はどちらかというと日本食、和食が中心だった、寿司に天麩羅、煮物や焼き物、小桜でも和食を修行した板前が何人かいた。当時は割烹「小桜」といっていた。ガスも電気も水道も完全には整備されていない時代によくやったものだと今思う、寿司飯を炊くのに七輪を使ったこともあったと聞く、昭和30年から復帰の年昭和47年までの17年間は世の中ドルの時代、支払いはほとんどが“掛け払い”いわゆる給料払い、琉球政府、那覇市、電電公社、郵便局の職員等が多くいたが皆掛け払い、各給料日に沖縄風てんぷらを持って集金に行くのが毎月の行事だった。いまだにもらい損ねたドルの請求書が小桜のの何処かにあるはずだ。

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